喜多郎
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この項目では、作曲家について記述しています。映像監督の同名の人物については「喜多郎 (映像監督)」をご覧ください。

きたろう」あるいは「鬼太郎」とは別人です。
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出典検索?: "喜多郎" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2013年12月)

喜多郎

基本情報
出生名高橋 正則
生誕 (1953-02-04) 1953年2月4日(71歳)
出身地 日本愛知県豊橋市
学歴愛知県立豊橋商業高等学校卒業
ジャンルニューエイジ環境音楽エレクトロニカクラシック
職業作曲家キーボーディスト
担当楽器キーボードシンセサイザー
活動期間1973年 -
レーベルドーモレコード
コロムビアミュージックエンタテインメント
事務所ドーモ ミュージック グループ(ドーモレコード

喜多郎(きたろう、1953年2月4日 - )は、日本キーボーディストシンセサイザー奏者作曲家。本名:高橋 正則(たかはし まさのり)。愛知県豊橋市出身。愛知県立豊橋商業高等学校卒業。元妻、田岡由伎

1994年、米映画『天と地 (Heaven & Earth)』(監督:オリバー・ストーン)でゴールデングローブ賞作曲賞受賞。2001年、米音楽界最高峰であるグラミー賞受賞、ノミネート17回。

彼は、Oshoラジニーシから「橋になれ」と諭された。そして、橋という意味を含むヒンズー名、“スワミ・デバ・セトウー”という名前を授けられた。「橋になれ、人と人とのかけ橋、人と自然とのかけ橋、すべてが結ぶ橋になれ」という教えは、彼にとってきわめて意味深いものだった[1]
人物・来歴
シンセサイザーとの出会い

1970年代初め、『ファー・イースト・ファミリー・バンド』のメンバーとしてキーボードを担当していた喜多郎は、レコーディングに訪れたヨーロッパで、ドイツシンセサイザー奏者クラウス・シュルツェと出会い、シンセサイザーにすっかり魅了される。帰国後、自分の音楽とシンセサイザーとの接点を見出す。

この『ファー・イースト・ファミリー・バンド』には、後にヒーリングミュージックを製作し、ヒーリングミュージックの第一人者となるミュージックセラピストの宮下富実夫も在籍していた。
エピソード等

「喜多郎」という名の由来は、長髪にしていた高校時代に、ニックネームで「キタロウ」(漫画『ゲゲゲの鬼太郎』の主人公・鬼太郎)と呼ばれていたことから、「キタロウ」に別の漢字を当て「喜多郎」としたもの[2]

1984年、外務省の国際親善音楽大使に任命され、シンガポールで公演が行われる予定となっていた。しかし、現地到着時に長髪男性の入国規制を受け、髪を切るか、帰国するかの選択を迫られたため、喜多郎はトレードマークである髪を切ることを拒み、公演をキャンセルして帰国した[3]
ソロ活動

1978年、ソロとして活動を開始し、初のアルバム『天界』をリリース。

1979年、『大地』『OASIS』を発表。

1980年NHK制作のドキュメンタリー番組『NHK特集 シルクロード』の音楽を担当し、そのテーマ曲は喜多郎の代表作となった。同年発売されたアルバム『シルクロード・絲綢之路』『シルクロード・絲綢之路 II』、パルコ劇場でのライブ録音『イン・パースン』は人気を集め、喜多郎の名が日本中に知られるようになる。

1981年、年が明けるとともにNHKの『ゆく年くる年』でオリジナル曲である「1981年1月1日」を当時居住していた長野県で披露。アルバム『敦煌』さらに『氣』を発表。

1982年、東映アニメ『新竹取物語 1000年女王』(CD国内未発売)のサウンドトラックを手がけ、初の全国ツアー(30都市)を行なう。同時期、NHK総合テレビジョンニュースセンター9時』のテーマソングを作曲・演奏。1988年3月の放送終了まで使われる

1984年アミューズアメリカアミューズの米国現地法人)と契約[4]。また、アジアツアーを行ない、台湾中国双方で演奏した最初の日本人ミュージシャンとなった。
海外進出

1985年米国ゲフィンレコードから6枚のアルバムがリリースされると、喜多郎の世界に魅せられるファンが世界で急増する。

1986年、ゲフィンレコードと全世界の独占契約を結び、アルバム『天空』を発表。

1987年、尊敬する『グレイトフル・デッド』のパーカッション奏者、ミッキー・ハート(英語版)との共同プロデュースによるアルバム『THE LIGHT OF THE SPIRIT』を発表。テーマを“生命・死・そして復活”とし、アルバム「天空」から始まる喜多郎の生命サイクルに対する音楽的探求の表れであった。アルバム発表後、コロンバスのオハイオ・シアターを皮切りに日本人初の全米ツアー(25都市31公演)を行い、ニューヨークシカゴボストンロサンゼルスをはじめ、多くの都市でチケットが完売を記録、大成功を収める。また、初めてアルバムと連動した同名のビデオ『ザ・ライト・オブ・ザ・スピリット』も発表する。

1988年、同アルバムからの楽曲“ザ・フィールド”でグラミー賞の「ベスト・ニューエイジ・パフォーマンス」にノミネートされる。同年、自身による初のベストアルバム『10イヤーズ/The Best of 10 YEARS』を発表。

1989年2月、ヨーロッパ・ツアー(15都市16公演)、さらに9月からは“Kitaro Live World Tour”を行い、北アメリカ、ヨーロッパ、日本と全52都市計55公演を行い、総動員数20万人を記録。

1990年、日本古来の物語と世界に伝わる伝説との融合を試みた壮大なコンセプトアルバム『古事記』を発表。米国音楽誌ビルボードのニューエイジ部門アルバム・チャートで、日本人初の8週連続第1位を獲得しアメリカでの人気が不動のものとなる。同年、米国コロラド州に移住。アルバム発表後のワールド・ツアーでは『古事記』をダイナミックに展開し、そのコンサート模様は、翌1991年にアルバム『Live in America』及びビデオ『KOJIKI: A Story in Concert』として発表され、同年9月、日本でもコンサートが開催される。


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