喜多川 諦道(きたがわ たいどう、1898年 - 1974年4月10日)[1]は、大分県出身の日本の高野山真言宗の僧。高野山米国別院
第3代主監・布教師。大分県で生まれる[2]。8歳で出家[3]。13歳で高野山の普賢院に弟子入りして修行を始める[2]。当時の普賢院の住職は、政界や財界に懇意で大隈重信もその一人。このことから諦道は大隈重信に可愛がられる。そして海外に興味を持つ[2]。 1923年9月15日に船でアメリカに渡る予定だったが関東大震災で延期。永田秀次郎に頼まれ、高野山で犠牲者を供養。翌1924年2月にアメリカに渡る[2]。 ロサンゼルスの大師教会(現、高野山米国別院)に挨拶に行き参拝したところ、主監に手伝いを頼まれて滞留することになる。それから主監は帰国する。次の主監が来るまで大師教会を任されるが来なかったため、諦道が日本に住む妻を呼び寄せて3代目の主監になる[2]。 1924年から1934年までの10年間、主監を務める[4]。 ボーイスカウト第379隊を結成する。諦道は人種差別の無いボーイスカウトのスポンサーになる。この隊は米国で最も優秀と選ばれて、諦道は大統領に謁見する[4]。現在のボーイスカウト第379隊は二世週日本祭で先頭を行進している。この隊の初代チャプレンは諦道となっている[4]。 諦道の日本への帰国の際には滞留を求める署名運動が起き、新聞の記事にもなる。1933年8月26日に帰国[5]。 1946年から1949年までプロ野球球団・ゴールドスター(→金星スターズ→大映スターズ)のマネージャーを務める[6]。 1960年頃、大阪の繁華街でぜんざいを出す店を営む[7]。 長男は喜多川真一、次男はジャニー喜多川(喜多川擴)、長女はメリー喜多川(藤島メリー泰子、旧姓:喜多川)、孫に藤島ジュリー景子がいる。長女のメリーの親族にホリプロ創業者の堀威夫の弟がいる。
滞米中
日本に帰国
親族
脚注^ 六大新報社 (5月 1974年). “ニュース ”. 六大新報 (3084): 14.
^ a b c d e “ジャニー喜多川さんの青春の地「高野山米国別院」、その父はエンターテインメントに「頭が切れる人だった」【命日に偲ぶ】
^ 誠, 戸部田. “「君たちに素晴らしいものを観せてあげよう」父親は真言宗の僧侶、朝鮮戦争に出征したことも…ジャニーズ帝国の王「ジャニー喜多川」の肖像
^ a b c “ジャニー喜多川さんの父は「グループを作る」という大きなことをやった
^ “喜多川諦道先生の帰国を惜しむ署名運動が起こり、新聞記事に