『喜べ、母なるポーランドよ』[1](よろこべ、ははなるポーランドよ、中世ラテン語: Gaude Mater Polonia、教会ラテン語発音: ガウデ・マーテル・ポローニア ラテン語発音: [??au?.d? ?ma?.t?r p??l??.ni.a]、ポーランド語: Raduj si?, matko Polsko)は、最も重要な中世ポーランドの聖歌(英語版)の1つである。13世紀から14世紀の間にクラクフ司教(英語版)、聖スタニスラウスをたたえるためにラテン語で書かれた。ポーランドの騎士は戦いに勝利した後にこの聖歌を詠唱した。おそらく、聖餐の賛美歌「おお、救いの犠牲よ(英語版)」と関連のあるグレゴリオ聖歌の旋律の1つに乗せて歌われた。ポーランド王国とポーランド・リトアニア共和国の歴史的な国歌として広く認められている[2]。 この賛歌は、1253年9月8日にアッシジでシュチェパヌフのスタニスラウスが列聖されたことに併せて歌われるようになった。スタニスラウスは1079年4月11日に殉教した[3]。本賛歌の作者の詩人キェルチャのヴィンツェンティ(ドミニコ会士、クラクフの律修司祭、司祭イヴォ・オドロヴォンシュ
歴史
ヴィンツェンティはラテン語で『聖スタニスラウス伝(Dies adest celebris(ポーランド語版))』を書いた。ヴィンツェンティは司祭スタニスラウスの生涯と業績、彼の死後に起こった奇跡について記述することを決めた。この奇跡はスタニスラウスの死後2世紀にわたって人々に言い伝えられていた。伝説では、聖スタニスラウスの亡骸が切断された後、奇跡的に再集合して再び全身が形作られたこと、その間にワシの群れが空で周回していた、とされる。これは、その当時のポーランドの状況、つまり分割されたが、元に戻って再び1つの国となることを願っていること、の寓喩であった。短身王ヴワディスワフの治世下、聖スタニスラウスの列聖の数年後にポーランドは再統合された[6]。
歌の要素が含まれる『聖スタニスラウス伝』の中で、「喜べ、母なるポーランドよ」の部分はしばらくして独立した曲と認められた。何年もかけて、この曲は最終的にピャスト朝の王室歌となった[6]。歌はポーランドの歴史と伝統の一部となり、ポーランドの君主の戴冠式(英語版)や王族の婚姻に際して、またウィーンでのヤン3世ソビェスキの1683年の勝利の祝賀でも歌われた。王や軍司令官らは戦いの後にこの賛歌を歌うことによって彼らの成功に対して感謝をささげた。旋律はおよそ750年間にわたって人気を博しており、ポーランド文化の重要な要素となっている。今日、ほとんどの大学(英語版)で新年度の始業式や、重要な祝日で歌われる。 音楽的観点からは、「喜べ、母なるポーランドよ」は、他のいかなるラテン語賛歌とは似ていない独特の旋律線を持つ。旋律は、弓型の対称構造を有しており、民俗音楽の特徴である物語型の旋律となっている。旋律は大きな喜びに満ちた、しかし誇り高い特徴を持つ。いくつかの文献は、この旋律が聖ドミニコに対する賛歌「喜べ、母なる教会よ《Gaude Mater Ecclesia》」(イタリアのドミニコ会に起源がある)から着想を得た、と述べている[7]。 最も一般的にはテオフィル・トマシュ・クロノウスキー Gaude, mater Polonia,
音楽
歌詞
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prole fecunda nobili.
Summi Regis magnalia
laude frequenta vigili.
Cuius benigna gratia
Stanislai Pontificis
passionis insignia
signis fulgent mirificis.
Hic certans pro iustitia,
regis non cedit furiae:
stat pro plebis iniuria
Christi miles in acie.
Tyranni truculentiam
qui dum constanter arguit,
martyrii victoriam
membratim casus meruit.
Novum pandit miraculum
splendor in sancto caelicus,
redintegrat corpusculum