善道真貞
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 凡例善道真貞
時代平安時代初期
生誕神護景雲2年(768年
死没承和12年2月20日845年3月31日
官位従四位下東宮学士
主君嵯峨天皇淳和天皇仁明天皇
氏族伊与部連→善道宿禰→善道朝臣
父母父:伊余部家守
兄弟伊与部真佐、真貞
子末継、岑継、貞継、忻妙
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善道 真貞(よしみち の さねさだ)は、平安時代初期の貴族儒学者氏姓は伊与部(伊余部)連のち善道宿禰、善道朝臣。伊賀守伊余部家守の子。官位従四位下東宮学士
経歴

15歳で大学寮に入学するが、数年の内に大学寮の諸教官にその才能と品行を推されて明経得業生に補せられる[1]大同4年(809年)官吏登用試験に合格して山城少目に任ぜられ、のち播磨少目に転任する。

嵯峨朝では、弘仁4年(813年)大学助教を兼ねると、弘仁10年(819年従五位下・大学博士に叙任され、弘仁11年(820年)には明経道に優れていることを賞され内位の従五位下に叙せられた。またこの間、越前大掾相模権介等の地方官も兼ねている。

淳和朝初頭には大学助・陰陽頭を歴任する。この間の天長2年(825年)の釈奠において、大学博士や学生等が紫宸殿に集められて論議を行った際、真貞の論旨展開と用語が優れているとして、により次侍従に任ぜられる[2]。天長4年(827年)従五位上。天長5年(828年)には上表して伊与部連から善道宿禰への改姓を許される。天長7年(830年正五位下に叙せられ、天長8年(831年阿波守に転じるが、『令義解』の撰修に参画したことから任地へ赴くことはなかった[1]

仁明朝では、承和3年(836年)朝臣姓に改姓した後、承和5年(838年)正五位上、承和6年(839年従四位下と昇進する。承和8年(841年)には皇太子恒貞親王東宮学士に任ぜられるが、承和9年(842年)に発生した承和の変により恒貞親王が皇太子を廃されると、真貞も備後権守に左遷される。承和11年(844年)国家に功労のある老臣であるとして仁明天皇が憐れんで、真貞は平安京に呼び戻される。諸学者は当代で『春秋公羊伝』を読解できるのは真貞のみであると言ったことから、この学問が廃れるのを防ぐために、真貞は特に命じられて大学で『春秋公羊伝』の講義を行ったという。承和12年(845年)2月20日自宅にて卒去。享年78。最終官位は散位従四位下[1]
人物

進取の気性に富み、物事に積極的に対処した。

春秋三伝(『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』)、三礼(『周礼』『儀礼』『礼記』)を修め、よく議論を行った。しかし、元より漢音を学ばなかったために四声を識別できず、教授の際には総じていい加減な字音を用いたという[1]
官歴

六国史』による。

時期不詳:明経得業生

大同4年(809年) 日付不詳:山城少目(課試登科)

時期不詳:播磨少目

弘仁4年(813年) 日付不詳:大学助教

弘仁10年(819年) 日付不詳:従五位下。大学博士

弘仁11年(820年) 日付不詳:明経博士。従五位下(内位

時期不詳:越前大掾相模権介

天長年間初頭:大学助。陰陽頭

天長2年(825年) 8月8日:次侍従

天長4年(827年) 正月21日:従五位上

天長5年(828年) 日付不詳:伊与部連から善道宿禰へ改姓

天長7年(830年) 正月7日:正五位下

天長8年(831年) 日付不詳:阿波守

承和3年(836年) 11月15日:宿禰姓から朝臣姓に改姓

承和5年(838年) 正月7日:正五位上

承和6年(839年) 正月7日:従四位下


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