善通寺
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この項目では、香川県善通寺市にある寺院について説明しています。東京都江戸川区にある寺院については「善通寺 (江戸川区)」をご覧ください。

善通寺
東院伽藍を正門より
所在地香川県善通寺市善通寺町三丁目3番1号
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度13分30.4秒 東経133度46分26.9秒 / 北緯34.225111度 東経133.774139度 / 34.225111; 133.774139 (善通寺)座標: 北緯34度13分30.4秒 東経133度46分26.9秒 / 北緯34.225111度 東経133.774139度 / 34.225111; 133.774139 (善通寺)
山号屏風浦五岳山
宗派真言宗善通寺派
寺格総本山
本尊薬師如来
創建年(伝)大同2年(807年
開基佐伯善通
正式名屏風浦五岳山 誕生院 善通寺
札所等四国八十八箇所75番
真言宗十八本山1番
讃岐三十三観音礼参本山
文化財金銅錫杖頭・一字一仏法華経序品(国宝)
金堂、五重塔ほか(重要文化財)
公式HP ⇒総本山善通寺
法人番号3470005002818
善通寺の位置
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全景 (香色山の中腹より)

善通寺(ぜんつうじ)は、香川県善通寺市にある寺院真言宗善通寺派総本山。屏風浦五岳山誕生院と号する。本尊薬師如来四国八十八箇所霊場の第七十五番、真言宗十八本山一番札所。和歌山県高野山京都府東寺と共に弘法大師三大霊場に数えられる。

平安時代初頭の807年に真言宗開祖空海の父である佐伯田公を開基として創建された。広大な境内は創建地である東院(伽藍)と、空海生誕地とされる西院(誕生院)に分かれている。

本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか

ご詠歌:我すまば よもきえはてじ善通寺 ふかきちかいの 法(のり)のともしび

納経印:当寺本尊、真言宗18本山(弘法大師)、讃岐三十三観音(礼参本山)、七ヶ所参り(布袋尊)、仙遊寺(延命地蔵)、四国八十八箇所「満願」の証目次

1 歴史

2 境内

2.1 東院(伽藍)

2.2 西院(誕生院)

2.3 備考


3 文化財

4 塔頭寺院

5 周辺

6 交通アクセス

7 前後の札所

7.1 前後の札所 (塔頭)


8 脚註

8.1 注釈

8.2 出典


9 参考文献

10 関連項目

11 外部リンク

歴史 金堂(重要文化財)

空海(弘法大師)は讃岐国、現在の善通寺市の出身である。『多度郡屏風浦善通寺之記』によれば、善通寺は空海の父で地元の豪族であった佐伯田公(さえきの たぎみ、:善通(よしみち))から土地の寄進を受け、大同2年(807年)に建立し始め、弘仁4年(813年)に落成したという[注釈 1]。空海の入唐中の師であった恵果が住していた長安青龍寺を模して建立したといわれ、創建当初は、金堂・大塔・講堂など15の堂宇であったという。寺号の善通寺は、父の名前である佐伯善通から採られ、山号の五岳山は、香色山(こうじきざん)・筆山(ひつざん)・我拝師山(がはいしざん)・中山(ちゅうざん)・火上山(かじょうざん)の5つの山の麓(ふもと)にあることから命名された。

善通寺の文献上の初見は、『東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)』に収められた寛仁2年(1018年)の「讃岐国善通寺司解」(さぬきのくにぜんつうじしげ)という文書である。ここで善通寺は、東寺の末寺として登場し、「弘法大師御御建立」「大師御霊所」とされ、空海の先祖による創建だとする伝えが古くから存在したことがわかる。境内からは白鳳から奈良時代にさかのぼる古瓦が出土しており、善通寺は実際には佐伯一族の氏寺として創建されたのではないかと推定されている。

本格的に興隆をむかえるのは鎌倉時代に入って、天皇上皇からの庇護や荘園寄進を受けてからである。この保護の背景には、平安後期に広まった弘法大師信仰があり、誕生の地に伝わり空海の自筆とされる「瞬目(めひき)大師像[注釈 2][注釈 3]」への崇敬がある。建長元年(1249年)道範のとき誕生院が建立され、東の伽藍、西の誕生院という現在の形式が出来上がった。鎌倉時代の善通寺の本寺は、東寺、随心院大覚寺、再び随心院と変転しつつも、室町時代以降は足利氏の庇護を受けつつ自律的経営を目指した。元徳3年(1331年)より中興の祖と云われた宥範が居住し、五重塔などの諸堂を再興し、暦応4年(1341年)には初代誕生院住職となる。

永禄元年(1558年三好実休の兵火に遭い伽藍を焼失するが、天正16年(1588年)に生駒親正から28石、生駒一正から35石の寄進を受けたことなどで立ち直る。近世には高松松平家丸亀京極家の庇護を受けて大いに栄えた。近世の善通寺の史料は少ないが残された絵図類などから、金堂や五重塔などの再建に奔走する傍ら、西院の御影堂を中心に参詣空間を充実させ、19世紀前半には完成したのが見て取れる[1]。また、明治に入ると付近に陸軍基地が置かれ、軍都として発展した。現在も陸上自衛隊善通寺駐屯地がある。江戸時代まで現在の東院である善通寺と現在の西院である誕生院は別の寺院であったが、明治初年に単一の寺院となった。昭和6年(1931年)大本山に昇格して管長寺となり、真言宗小野派を真言宗善通寺派と改称し、 昭和16年(1941年)には真言宗善通寺派総本山に昇格している。

善通寺には数万点にも及ぶ文書・記録類が所蔵されているが長らく手付かずであった。しかし、平成12年(2000年)から創建千二百年記念事業として地元の香川県立ミュージアムにより調査、リスト化が進められており、調査報告書などが刊行されている。
境内
東院(伽藍) 迦陵頻伽

南大門(みなみだいもん) - 日露戦争戦勝を記念して1908年頃再建された正門。屋根の四隅に四天王像、上の向かって左から龍・迦陵頻伽2体・鳳凰がいる。
講堂跡より左から五重塔・金堂・金毘羅山

金堂本堂) - 元禄12年(1699年)再建。堂の中に入って本尊の周りを後ろまで回って間近に拝観できる。この堂の背後にはかつて講堂があった。

本尊薬師如来坐像(仏師・北川運長の製作、檜材寄木造、漆箔、玉眼、像高約3mの丈六仏、元禄13年作[2]

特別公開日の五重塔。2層目まで拝観できる。

五重塔 - 1902年完成。4代目。高さ43m(礎石上?相輪頂上)。五智如来の内4如来が1層に中尊大日如来は5層に祀られる。毎年5月の連休中に2層目まで入れ、4如来と心柱が拝観でき、2層目から境内を見渡せる。

釈迦堂(勅願常行堂) - 延宝年間(1673年-1681年)再建。江戸時代作の釈迦如来坐像を拝顔できる。元は御影堂で天保2年(1831)御影堂が新築されたとき移された。

鐘楼 - 江戸時代末期再建。


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