善如
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善如

正慶2年2月2日 - 康応元年2月29日
1333年2月24日 - 1389年4月4日
1333年2月16日 - 1389年3月27日
上段・旧暦 中段・グレゴリオ暦換算[1] 下段・ユリウス暦
幼名光養丸
法名善如
諱宗康⇒俊玄
尊称善如上人
宗旨浄土真宗
宗派本願寺派(後の浄土真宗本願寺派、後の真宗大谷派
寺院大谷本願寺
覚如従覚
弟子綽如
著作『ヘ行信證延書』19巻
大谷祖廟 (真宗大谷派)
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善如(ぜんにょ)は、南北朝時代浄土真宗浄土真宗本願寺派第4世宗主・真宗大谷派第4代門首。大谷本願寺住職。は俊玄。法印権大僧都。父は第3世覚如の次男従覚。第5世綽如は子。
生涯

年齢は、数え年。日付は文献との整合を保つ為、生歿年月日を除き旧暦(宣明暦)表示とし、南北朝時代の元号は、北朝(京都)で表記する。

正慶2年2月2日(1333年2月24日[1])、生まれる。

京都青蓮院にて得度し伯耆守宗康、後に大納言と称する。幼い頃より天台宗の教えを学ぶ。『日野一流系図』には日野俊光猶子とあるが、俊光は善如が生まれる前に亡くなっている。


観応元年(1350年)、覚如より本願寺別当職(留守職)を継承。延文2年(1357年)には本願寺が勅願寺となる。

延文4年(1359年)、存覚に歎徳文の再編を依頼する。それ以降、報恩講において拝読されるようになる。

永徳2年(1382年)、南朝の総大将楠木正勝に浄土真宗を講じる(横玉山定専坊の寺伝による)。

康応元年2月29日(1389年4月4日[1])、57歳にて示寂。跡は子の綽如が第5世となり本願寺を継ぐ。

著書

『ヘ行信證延書』19巻

関連項目

親鸞

脚注^ a b c グレゴリオ暦換算。本願寺派では、グレゴリオ暦に換算した生没年を用いる。










本願寺

本願寺寺基の移転と分立
東西分立前
本願寺の歴史

大谷廟堂 1272-1295(1321) → (大谷影堂)1295-1321 → 大谷本願寺1321 - 1465 ⇒ 山科本願寺1483 - 1532 ⇒ 石山本願寺(大坂本願寺)1532 - 1580 ⇒ 鷺森本願寺1581 - 1583 ⇒ 貝塚本願寺1583 - 1585 ⇒ 天満本願寺1585 - 1591 ⇒ 本願寺(堀川六条)1591 - (1603) → (1603本願寺の東西分立) ?
東西分立後

(本願寺〈西〉) → 1881 - 浄土真宗本願寺派

本願寺(通称:「六条門跡」・「本門」→「西本願寺」)1591(1603) -
(本願寺〈東〉) → 1881 - 真宗大谷派

本願寺(通称:「信淨院本願寺」・「七条本願寺」→「東本願寺」)1603 - (1987) → (東本願寺分派)?
東本願寺分派後

(1881) - 真宗大谷派

本願寺(東本願寺)1603 - 1987 → 真宗本廟(通称:東本願寺・本願寺)1987 -
1988 - 浄土真宗東本願寺派

東京本願寺1981 - 2001 → 浄土真宗東本願寺派本山東本願寺2001 -
浄土真宗大谷本願寺派
本願寺文化興隆財団

本山本願寺(山科区上花山)1996 -
本願寺(京都市右京区)

(嵯峨)本願寺2005 -


東西分立後も、1987年に真宗大谷派が「宗教法人 本願寺」の解散の登記を行うまでは、共に「本願寺」が正式名称である。真宗大谷派は、1987年以降も「真宗本廟」の別称として「本願寺」を用いている ⇒『宗憲』第十三条
記号 - 「⇒」は寺基移転を表し、「→」は寺基移転を伴わない名称変更などを表す。


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