この項目では、長野県長野市にある善光寺について説明しています。その他の善光寺については「善光寺 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
善光寺
本堂(国宝)
所在地長野県長野市元善町491
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度39分42.12秒 東経138度11分15.76秒 / 北緯36.6617000度 東経138.1877111度 / 36.6617000; 138.1877111
善光寺(ぜんこうじ)は、長野県長野市元善町にある無宗派の単立仏教寺院。住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務める。本尊は日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)で、絶対秘仏である[2](開帳は前立本尊で行う[3])。
本尊の善光寺如来は由緒ある像として権威の象徴とも見なされ、戦国時代には大名がこぞって自領(本拠地)に善光寺如来を遷座させ、各地を転々とした。
昔から多くの人々が日本中から善光寺を目指して参詣し、「一生に一度は参れ善光寺」と言われた。 山号は「定額山」(じょうがくさん)で、山内にある天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって護持・運営されている。「大勧進」の住職は「貫主」(かんす)と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が務めている。「大本願」は、大寺院としては珍しい尼寺である。住職は「善光寺上人」(しょうにん)と呼ばれ、門跡寺院ではないが代々公家出身者から住職を迎えている(浄土宗では大本山善光寺大本願の法主)。令和5年(2023年)時点の「善光寺貫主」(「大勧進貫主」)は前大勧進副住職の第104世栢木寛照[4]、「善光寺上人」(「大本願上人」)は鷹司家出身の第121世鷹司誓玉である。 古えより、「四門四額」(しもんしがく)と称して、東門を「定額山善光寺」、南門を「南命山無量寿寺」(なんみょうさんむりょうじゅじ)、北門を「北空山雲上寺」(ほくくうさんうんじょうじ)、西門を「不捨山浄土寺」(ふしゃさんじょうどじ)と称する。 特徴として、日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている。また女人禁制があった旧来の仏教の中では稀な女性の救済[注 1]が挙げられる。そのため、江戸時代には女性の参詣者が非常に多いという特異な現象があった(昔、女性の旅行者はまれだった)。また、善光寺参詣で得られるのは現世利益ではなく、死後の極楽往生だった。身分も男女も善悪も問わず、どんな人でも必ず極楽往生できる、という善光寺の特色が、全国から人々をひきつけたと言える[5]。 三国渡来の絶対秘仏の霊像と伝承される丈一尺五寸の本尊・一光三尊阿弥陀如来像が本堂「瑠璃壇」厨子内に安置されている[6]。その姿は寺の住職ですら目にすることはできないとされ、「お朝事」と呼ばれる朝の勤行や正午に行なわれる法要などの限られた時間に金色に彩られた瑠璃壇の戸張が十数秒ほど上がり、瑠璃壇と厨子までを拝することが通例とされる。 数えで七年に一度の御開帳には、金銅阿弥陀如来及両脇侍立像(前立本尊)が絶対秘仏の本尊の分身として公開される。また、日本百観音(西国三十三所、坂東三十三観音、秩父三十四観音)の番外札所となっており、秩父三十四観音の三十四番水潜寺で百観音結願となった後には「結願御礼として長野の善光寺を詣でる」といわれている。 善光寺は伊勢神宮・熱田神宮とともに、中日本では古くからの歴史がある神社仏閣である。 善光寺の本尊「一光三尊阿弥陀如来」は、天竺の月蓋長者が鋳写したものとされ、百済経由で聖王(聖明王)から日本に献呈された最古の仏とされる。この仏像は廃仏派の物部氏によって難波の堀江に捨てられるが、本田善光(若麻續東人とも言う)に拾われ(一説に和光寺)、信濃の元善光寺へ、次いで現在地に遷座したと伝えられる。ここまでは伝説であり、実際の創建の経緯は不明である。 有力なのは、善光寺は天武天皇時に日本全国で造られた郡寺(郡衙隣接寺院、信濃国水内郡は金刺舎人)のひとつで、金刺氏が創建に関わったという説である[8]。『伊呂波字類抄』引用の善光寺古縁起に、「皇極元年(642年)若麻績東人、水内郡の宅を改めて草堂となす」とあるように、善光寺は元々「草堂」であったとされる。しかし、後に瓦葺きとなった。 善光寺に用いられていたのは「川原寺式瓦」というものであるが、この瓦は地方豪族のいた地域(品部や名代などの王権や中央豪族の部民が存在しない地域)のみに存在していることから、善光寺は地元の豪族(金刺氏)の影響を強く受けていると考えられる[9]。善光寺のものと確証が得られている訳ではないが、境内の遺跡から出土した古代寺院の古瓦は9世紀の物と鑑定されている[10]。これらのことから、遅くても平安時代初期頃までには瓦葺きの建物を持つ寺が現在地にあったのは確かなことであり、おそらくは金刺氏かその一族若麻績氏が建立したのであろう。[11]善光寺が草堂から瓦葺の寺院となったのは、壬申の乱の影響であり、多品治が同族である金刺氏や他田氏を率いて功績を残したことがきっかけであるとされる[9]。 善光寺の名は開祖の本田善光の名を取ったといわれる。しかし、古い善光寺縁起には本田善光という名が出てこない。本田善光の存在自体が創造であるとするなら、善光寺はなぜ善光寺と名付けられたのか。有力な説は百済王善光からというものである。奈良時代には百済王善光は百済系渡来人の祖として崇められるようになったという。
概要
歴史難波の堀江にて如来と出会う本多善光。
善光寺の創建と発展詳細は「善光寺縁起」を参照[参考]善光寺式阿弥陀三尊の例 銅造阿弥陀三尊立像 嘉元2年(1304年)銘 福島県いわき市所有(同市・如来寺旧蔵、東京国立博物館寄託)[7]