善光寺地震
[Wikipedia|▼Menu]

善光寺地震
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}

震央の位置
本震
発生日弘化4年3月24日(1847年5月8日)[1]
震央長野県北部(善光寺平)
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度42分 東経138度12分 / 北緯36.7度 東経138.2度 / 36.7; 138.2座標: 北緯36度42分 東経138度12分 / 北緯36.7度 東経138.2度 / 36.7; 138.2[2]
規模   M7.4
最大震度   震度7:長野県北部など(推定)
津波記録無し
地震の種類直下型地震(逆断層型)
地すべり有り
被害
死傷者数死者8000-12000人
被害地域日本 甲信越地方など

プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
テンプレートを表示
地震で落下した梵鐘の当傷。梵鐘は当時の物ではない。善光寺本堂。地震横死塚。善光寺。

善光寺地震(ぜんこうじじしん)は、1847年5月8日弘化4年3月24日)、信州(現長野県)の善光寺平(ぜんこうじだいら)を震源とし直下型で発震、付近に多大の損害をもたらした逆断層型の地震。地震規模を示すマグニチュード河角廣による推定でMK = 5として M = 7.4 (M = 4.85 + 0.5 MK)[3][4][5]、文献によっては 7.3。
地震像善光寺地震の震度分布[4]

荒船断層などのトレンチ調査などにより、発生周期は約1,000年に一度とされている[6][7]。名前から受けるイメージで、善光寺周辺の狭い地域の地震として考えてしまいがちであるが、震源域は現在の飯山市常郷付近から長野市大岡にかけての約60kmないしは50kmと推定[8]されている。また、5日後には現在の上越市高田付近でM6.5の誘発地震があった。下記の各地の推定震度や震度分布図は、この5日後の誘発地震による被害を含んだものであり、善光寺を起点に千曲川沿いに飯山付近までと、野尻湖を経由して関川沿いに上越方面へ二手に分かれて強震域が伸びる形となっている。しかし関川沿いの強震域は5日後の誘発地震によるものと考えられ、この影響を分離した本震による強震域は千曲川沿いの飯山から更埴辺りまでの活断層が震源域であると示唆される[8]

強振動による家屋の崩壊および斜面の崩落や隆起陥没を生じた。犀川で生じた河道閉塞と閉塞箇所の決壊による洪水は、新潟県信濃川流域でも大きな被害をもたらした。

この地震のために生じた小松原断層と善光寺断層は長野市西部に残っている、これら断層を総称し、長野盆地西縁断層群とも呼ぶ。

地域推定震度[4]
畿内京都(e), 池田(e), 大坂(e), 尼崎(e)
東海道下妻(e), 古河(e), 流山(E), 赤尾(E), 熊谷(E), 塩山(E), 甲府(e), 江戸(E), 神奈川(S), 平塚(E), 御殿場(E), 駿府(e), 見附(E), 赤羽根(E), 桑名(E)
東山道大石田(e), 日光(E), 芳賀(e), 壬生(E), 佐野(E), 沼田(E), 吾妻(E), 中山新田(E), 高崎(e), 小布施(5-6), 善光寺(7), 松代(6-7), 稲荷山(7), 上田(5-6), 小諸(4), 小海(4), 鬼無里(6), 大町(6), 松本(5), 諏訪(4-5), 高遠(4), 駒ヶ根(4), 飯田(E), 馬籠(E), 大萱(E), 保木脇(5), 柳津(E), 大垣(E), 上石津(E), 近江八幡(e)
北陸道小木(E), 新潟(4), 与板(4-5), 長岡(4-5), 栃尾(E), 高田(6-7), 関山(5-6), 能生(E), 糸魚川(4), 高岡(4-5), 福野(e), 輪島(E), 穴水(e), 志雄(S), 金沢(4-5), 加賀(S), 福井(E)
山陰道宮津(E), 豊岡(e)
山陽道赤穂(e)
S: 強地震(≧4),   E: 大地震(≧4),   M: 中地震(2-3),   e: 地震(≦3)

被害

逆断層型の地震であったため、乗り上げた側である断層線の西側の地域での被害が大きかった[9]。松代藩主自身が各地に赴き被害状況の確認をしている。藩主・真田信濃守幸貫から御用番牧野備前守忠雅へ宛てた被害の届出には、山抜崩大小4万1051か所との記録があり、その分布は、信州地震大絵図』(松代藩、真田宝物館所蔵)に表現されている。また8年後の1855年に母を伴い付近を旅した清川八郎は「善光寺の町はさすがに復旧が進んでいるが他は未だ寂しきありさま」と書き残している。
建物・人

折から善光寺如来開帳の期間にあたり、諸国から参詣客が群集し、当日の市中は最も混雑していた。その夜8時をわずかに過ぎたころ、地震が発生した。参詣客が宿泊していた旅籠(はたご)街を中心に数箇所から火の手が上がり3日延焼した、市中では家屋の倒壊焼失したもの2,094軒、震災を免れたものわずかに142軒という惨害を生じた。善光寺如来堂、鐘楼山門は、半壊しただけで焼失を免れたが、死者は市中のみで2,486名に達した。被害が激しかったのは、長野権堂村妻科村稲荷山、鹽崎村、中尾村、牟礼、大古間、野尻等で、全震災地を通じて死者総数8,600人強、全壊家屋21,000千軒、焼失家屋は約3,400軒を数えた。飯山藩では城内の被害も多く門の倒壊や本丸の損傷、城下侍屋敷では93棟の倒壊、町方の被害は焼失547、倒壊329が幕府に報告されている。
自然災害

地震とともに山崩れを生じたところも多く、松代藩領内で42,000ヶ所、松本藩領内では1,900ヶ所に及んだ。中でも犀川右岸の岩倉山(虚空蔵山)の崩壊は犀川の後述の河道閉塞と下流に洪水を引き起こし大被害をもたらした[10]。浅川周辺では天然ガスが噴出し、一帯は「新地獄」と呼ばれた[11](「浅川油田」項目参照)。
河道閉塞1847年善光寺地震で最大規模の河道閉塞が犀川本流に形成された箇所。犀川支流の柳久保川上流に形成された柳久保池柳久保池の航空写真。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

むしくら日記』によれば松代藩領内51箇所、松本藩領内41箇所で河道閉塞が生じた。
犀川

岩倉山(虚空蔵山)で発生した斜面の崩落は、現在の長野市信更町安庭の2箇所で閉塞を生じさせた[12][13]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:47 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef