啓徳空港
[Wikipedia|▼Menu]

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。
出典検索?: "啓徳空港" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2016年10月)

啓徳空港
Kai Tak Airport
(旧・香港国際空港)


IATA: HKG - ICAO: VHHH
概要
国・地域 イギリス領香港 香港
所在地九龍城区
種類民間
運営者香港民航処
(香港民航處)
(香港民航?)
標高9 m (28 ft)
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯22度19分43秒 東経114度11分39秒 / 北緯22.32861度 東経114.19417度 / 22.32861; 114.19417座標: 北緯22度19分43秒 東経114度11分39秒 / 北緯22.32861度 東経114.19417度 / 22.32861; 114.19417
地図
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}HKG/VHHX
滑走路

方向 ILS 長さ×幅 (m) 表面
13/31 13(IGS)/31 3,390×60 舗装

リスト
空港の一覧
テンプレートを表示

啓徳空港
繁体字 ?コ機場
簡体字 ?コ机?

発音記号
標準中国語
漢語?音Q?de J?ch?ng
ウェード式Ch'i3 te2 chi1 ch'ang2
粤語
粤?Kai2 dak1 gei1 coeng4

啓徳空港(カイタックくうこう、けいとくくうこう、Kai Tak Airport)は、イギリス香港九龍ヴィクトリア・ハーバーに面した九龍城区、九龍半島の北東端にかつて存在していた国際空港及びイギリス空軍基地である。
概要

長年、香港の空の玄関、及びアジアのハブ空港として重要な役割を果たしていた。第二次世界大戦前は宗主国イギリスロンドンマンチェスターフランスパリアメリカサンフランシスコホノルルオーストラリアダーウィンなどと結ばれアジアで最も国際的な空港の一つだった。

正式な名称は香港国際空港(香港國際機場)だったが(後述)、所在地付近の地名から「啓徳空港」(?コ機場)と通称された。日本語では、広東語読みとそれから音写されたアルファベット表記から「カイタック」と読まれることが多かったが、日本語の音読みで「けいとく」とも読まれることもあった。

1998年7月5日に閉港し、「香港国際空港」はランタオ島沖の赤?角に建設された新空港に移転した。現在は、空港跡地には啓徳クルーズ・ターミナル(後述参照)が立地している。
地理的環境

啓徳空港は香港九龍九龍湾の東側に位置し、九龍市街よりタクシーで10分‐20分と至近の距離にあった。しかし周辺は険しい山々に囲まれていた。北および北東へ4 km (2.5 mi)未満の位置に、標高610 m (2,000 ft)の山がある。東面の山は3 km (1.9 mi)未満の距離である。空港のすぐ南にはビクトリア港があり、さらに南には640 m (2,100 ft)の山がある香港島がある。

滑走路は、海面を埋め立てて作られ、最初の建設後に数回拡張された。空港が閉鎖された時、長さ3,390 m (11,120 ft)(13/31、南東/北西)の滑走路一本だけであった。

滑走路の北端には、道路を挟んで6階建ての建物がある。滑走路の3方向はビクトリア港に囲まれていた。
沿革
地名の由来

「啓徳」という地名の由来は、何啓(何?)と区徳(區コ)が設立した「啓徳営業有限公司」という投資会社が、1912年、香港植民地政府の許可を得て開発目的でヴィクトリア・ハーバーに面した九龍湾北岸の辺りを埋め立てたことにちなむ。この埋立地は「啓徳浜」(?コ濱)と名づけられた。しかし事業は行き詰まり、香港植民地政府が土地を買い取ることになった。
空港完成

1924年、アメリカ人のハリー・アボットが航空学校を設立するため、啓徳浜の一部を借り、草地の滑走路を作ったが間もなく閉鎖された。その後改めて空港の整備が行われ、1925年1月24日に運用開始した。1927年3月、啓徳浜は英国空軍の飛行場となり、1936年には軍民共用の空港となった。これが「啓徳空港」である。
発展 パンアメリカン航空のボーイング314(1939年) 終戦直後の様子(1945年) 英国海外航空とカンタス航空のダグラスDC-4B(1958年) 旅客ターミナル風景(1960年代) 九龍城に置かれた着陸灯(1960年代) 日本航空のダグラスDC-8-61(1971年) 旅客ターミナル風景(1970年代) 旅客ターミナル風景(1989年) 閉港を間近にひかえた啓徳空港(1998年7月2日)

1935年に管制塔と格納庫が完成し、翌1936年3月24日にはブリティッシュ・エアウェイズの前身、インペリアル・エアウェイズが初の民間航空便として、マレー半島ペナンから乗り入れた。

その後数年の間に、パンアメリカン航空ハワイグアムマニラなどを経由してサンフランシスコから飛行艇で乗り入れ、その後エールフランスの前身、エア・オリエントが、ドボワチン D.338パリからバンコクサイゴンなどを経由して乗り入れた。

また、中国航空公司が広州上海から、旧中央航空公司の前身、ルフトハンザ航空との合弁の欧亜航空公司が北京から乗り入れを開始した[1]。だが大日本航空などの日本の航空会社は、大日本帝国陸軍などによる情報収集を恐れたイギリス政府により乗り入れを拒否され続けた。

このように東アジアの航空拠点として繁栄したものの、1941年12月に太平洋戦争が始まり、香港周辺の空域が日本軍の制空権下となったため、ヨーロッパやアメリカからの路線の多くが中断を余儀なくされた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:129 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef