商用潜水艇(しょうようせんすいてい)、あるいは民間潜水艇(みんかんせんすいてい)は、通商を目的として武装していない、他の大半の潜水艦と違って軍艦ではない潜水艦である。使用目的は、封鎖突破船にするか、極地の海氷の下を潜ることで砕氷船の遅い速度(6-8ノット)を克服する事にある。
厳密に言えば、今までに非軍事の商用目的専用で建造された潜水艦は2隻のみである。しかしながら、特に戦時には、標準的な軍用潜水艦を部分的に改造するなどして、少量の重要な貨物を運ぶために用いてきた。また、メーカーからは大規模な商用潜水艦の提案がこれまでになされてきている。 歴史的に、2隻の商用潜水艇のみが建造されており、どちらも第一次世界大戦中のドイツにおいてである。イギリス海軍を中心とする連合国の海上封鎖をすり抜ける目的で建造された。海上封鎖によりドイツ企業は、ドイツの勢力圏だけでは十分な量を入手できない原材料を調達することが非常に困難になったため、ドイツの戦争努力をかなり妨げていた。
ドイツ
概要
イギリスはすぐにアメリカに対して、他の船舶と同様に停船させて弾薬などを輸送していないか査察することができないとして、潜水艦を商用に用いることに抗議を行った。自身の中立を宣言しておきながらも、潜在的に一方の側をひいきしていると外交上の圧力を受けているアメリカは、この抗議をはねつけた。潜水艦であっても、非武装である限りは商船としてみなされるべきで、したがって通商が認められるとした[1]。 ドイッチュラント(German submarine Deutschland
ドイッチュラント
1916年6月23日に出航した最初のアメリカへの航海では、ドイッチュラントは医薬品や郵便物だけでなく、163トンの非常に人気の高い化学染料を輸送した。探知されることなくイギリス海峡を通り抜け[1]、ボルチモアに1916年7月8日に到着して348 トンのゴム、341 トンのニッケル、93 トンのスズを搭載して、ブレーマーハーフェンへ1916年8月25日に戻ってきた。この過程で8,450 海里を航海し、うち190 海里だけ潜航した。
この航海から得られた利益は1750万ライヒスマルクに上り、これは建造費用の4倍以上であった。これは主に特許で保護されている高度に濃縮された染料の高い価格によるもので、1 ポンド当たり2005年時点での1,254 米ドルの価値があった[2]。それと引き換えに持ち帰られた原材料は、ドイツの戦争工業の需要を数ヶ月分満たすことができた。
同年10月から12月にかけて行われた2回目の航海も大成功し、再度化学物質・薬品・ゴム・ニッケル・合金・スズなどの取引を行った。しかしながら、ドイッチュラントはニューロンドンにおいてタグボートと接触事故を起こしてわずかに損傷した。戻ってくると、船長のパウル・ケーニッヒはドイッチュラントの航海について本を書いた(ゴーストライターによる可能性もある)。この本は米独両国でのプロパガンダを意図していたので、広く宣伝された[3]。
1917年1月に予定されていた3回目の航海は、アメリカがドイツに対して参戦したために中止された。ドイツの潜水艦が、アメリカからイギリスへ向けて送られる貨物を載せた船を、時にはアメリカの領海のすぐ外側で沈めていることに対してアメリカが怒ったことが、宣戦布告の理由の1つであった。ドイッチュラントはドイツ帝国海軍に接収され、改造されて巡洋潜水艦(submarine cruiser、浮上中に戦闘できる砲を装備した潜水艦の一種)のU-155となった。3回の出撃で43隻を撃沈した。終戦後、1918年12月にイギリスへ戦争の記念品として持ち去られた。1921年に解体されたが、解体に際して潜水艦がバラバラになるような爆発事故が起きて5人の解体作業者が死亡するという悲劇的な最後となった[2]。 ドイッチュラントの姉妹船として、2隻目の商用潜水艇「ブレーメン」(German submarine Bremen 1917年初めにアメリカが参戦した時点で、さらに6隻の商用潜水艇がドイッチェ・オツェアン・レーデライによって建造中であった。商用潜水艇の建造はその後中断されるか、ドイッチュラントに似た巡洋潜水艦へと改造された。 第二次世界大戦では、ドイツはXIV型Uボートを大西洋で攻撃用Uボートに燃料補給するために使用していた。これらの補給潜水艦はドイツ海軍の所属であったため、軽武装であるが対空砲を備えており、ドイッチュラントのような通商に関与することはなく、商用潜水艇に分類されることもない。しかし、当時の通常潜水艦に比べて巨大な貨物スペースを備えている点で共通している。 イタリアの1943年9月の降伏後に、ドイツはイタリアの類似の潜水艦を5隻接収した。これもまた防御兵装を持っていたため法的には商用潜水艇ではないが、そのための性質を多く備えていた。イタリアの節を参照。 イタリアで設計された2,100 トンのR級潜水艦(Italian R class submarine 改造はボルドーで行われる予定で、武装は防御用の機関銃に限定され、また160 トンの積み荷搭載能力のために予備浮力は20 - 25 パーセントから3.5 - 6 パーセントに減少することになった。ビゼルトで捕獲された数隻のフランスの潜水艦もまた改造予定となっていた。これらは974トンのPhoque、Requin、エスパドン、Dauphinであった[7]。 これらの潜水艇はボルドーからシンガポール(当時は日本占領下で枢軸側である)への東行航路で水銀・鉄鋼・アルミニウム・溶接鋼・爆弾の試作品・20mm機関砲・戦車や爆撃照準器の設計図、12名程度までの旅客を運んだ。帰りの積み荷は110 - 150 トンのゴム・44 - 70 トンのスズ・5 トンのタングステン・2 トンのキニーネ・2 トンのアヘン・竹・トウ・旅客であった。コマンダンテ・カッペリニ、レジナルド・ジウリアニ、エンリコ・タゾリはボルドーを1943年5月に出港した。同年7月と8月に、前2隻は到着したが、エンリコ・タゾリはビスケー湾で連合軍の爆撃機により撃沈された。バルバリーゴは同様に6月に出港する際に撃沈されたが、ルイジ・トレッリは8月にシンガポールに到着した[7]。 9月にイタリアが降伏すると、ボルドーで改造中のジュゼッペ・フィンチとアルピノ・バグノリニはドイツによって接収され、それぞれUIT-21、UIT-22となった。レジナルド・ジウリアニとコマンダンテ・カッペリニ、ルイジ・トレッリは日本に接収されてドイツに提供され、それぞれUIT-23、UIT-24、UIT-25となった。UIT-22は1944年1月にボルドーからスマトラ島へ向けて出港したが、イギリス空軍第262飛行隊のカタリナ飛行艇によって3月に南アフリカ沖で撃沈された。UIT-23は2月にイギリス海軍の潜水艦タリホー (Tally-Ho) によって撃沈された。
ブレーメン
その他の船
イタリア
第二次世界大戦