唯一神
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唯一神(ゆいいつしん)とは、古くは預言者としてのアブラハムに出現したとされる単一のを指す。広義の意味における唯一神は、単一神教において、その唯一性を強調した宗教にもあてはめることができる。狭義の意味においては、ユダヤ教イスラーム教キリスト教において国教化された宗教の神を指した言葉として、一般化されている。これらの宗教の神や救済者の認識については、三者三様であるが、アブラハムの宗教として同一の起源を持つとされている[注 1]。唯一神の信者は、この世界が滅んだのち、自分たちの崇拝する神が、絶対的な新しい世界を創る、という信仰を持っている。唯一神は、他の神々の存在や他宗の信者の存在を原理的に否定しているとされている。それは、この三宗教のお互い同士の不仲・戦いにも当てはまっているようだ。
唯一神の救済と信者の行動

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民族

唯一神の救済の対象を、一つの民族とした場合、他の民族は神の救済の対象外とされやすい。この教義が終末思想と結びついた場合、他民族排斥や民族闘争になりやすいといえる。
宗教

唯一神の救済の対象を、一つの宗教とした場合、他の宗教信者は神の救済の対象外とされやすい。この教義が終末思想と結びついた場合、異端排斥や異端弾圧や宗教戦争になりやすいといえる。
地球

唯一神の救済の対象を、地球全体の民族・宗教とした場合、人類全体が神の救済の対象と見なされることにつながる。人類愛や、平和な世界を希求する生き方が選択されやすいといえる。
ユダヤ教

ユダヤ教では、創世記に出てくる、天地を創造した神を唯一神としている。

唯一神・絶対神という神観念は、モーセの時代よりもずっと後に発生したものであるとされている。神の啓示としてみた場合、モーセの時代には、他の偶像崇拝の信者とも、調和的に生きよという啓示が下されていたことになる[注 2]。モーセの時代の、他との調和をはかるようにという神の啓示が、亡国により、唯一神として他の宗教を認めないとする原則の聖書の言葉に変化した、と見ることができる。そのため、最も古い神観念はモーセの時代の拝一神教から始まり、バビロン捕囚のときに、創世期から唯一絶対の神として、変化していったということができる。

旧約聖書における神の呼称には、ヤハウェエロヒムの二つがあるとされる[注 3]。エロヒムという語は、イスラエルの神として単数形で表されるというルールがあると同時に、複数形で表されている記述があるとされる。創世記の、「神はまた言われた、われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り…」の部分において、冒頭の「神」はエロヒムであり単数動詞が使われているが、しかし同じ文脈で「われわれ」という語も使われているとされる[1][注 4]

ヘブライ語聖書には、エロヒムという語が2500回以上も出現するとされる。一般的には最高神としての「神」を表すと考えられるが、それ以外にも、特定の神、モアブの神、悪魔、セラフィム、その他の超自然的存在、死者の霊、そして王や預言者に対してさえも使われたとされる[2]
神認識の変化
拝一神教時代

前11世紀後半、
ダビデ王イスラエル王国を築き統治する[3]カナンへの定着によって、出エジプトを導いたヤハウェ神は、救済神として崇拝される[注 5][注 6][注 7]

前932年、ソロモン王の死後、部族間の統制を失った統一イスラエル王国は北王国として知られるイスラエル王国と南王国として知られるユダ王国に分裂した[4]

前10世紀、ヤハウェの呼称を用いる文書については、古いものでは前10世紀に成立したと考えられている[5]

唯一神教時代

前722年、北王国が滅ぼされる。
[6] 北王国の滅亡という現実から、南王国にて神の義や罪の概念が生まれ、ユダヤ教が唯一神教に変わっていったとされる[7]

前6世紀前半、南王国がバビロニアによって滅ぼされる[8]。 神の唯一性が絶対的になったのは、前6世紀のバビロニア捕囚前後からとされる[9]

前586年、バビロニア帝国は、ユダヤ民族のほとんどを捕囚とし、バビロニアに入植させた[10]。 捕囚時代において神殿は存在していなかったが、ヤハウェ崇拝は続けられていた[注 8]

前539年、アケメネス朝ペルシアは、バビロンに無血入城し、支配下に置いた[11]

前538年、多くのユダヤ人パレスチナに戻る[12]

聖書成立の開始

前6世紀後半?前4世紀後半、ペルシャ時代において第二神殿の建設と聖書成立の開始が為される。この時期にモーセ五書の律法の部分が成立し、聖書が神の言葉としての強い権威を持つに至ったとされる。また、この時代に律法が作成された理由としては、ペルシャ当局の統治政策により、ユダヤ民族が従うべき掟を文書として提出しなければならないという命令が下されたことがあげられるとされる。これによって、公式に提出された律法はもはや変更できないという状況となり、政治的な権威も加わって、モーセ五書が神の言葉としての絶対的権威を持つに至ったとされる[13]

紀元前458年、エズラはペルシア王の許可を得てバビロンからエルサレムに赴いた(「エズラ記」7:1、7:6、7:8、7:11-13。)エズラは、ユダヤ人社会の宗教と法の掟を統合した[14]

エズラが作成した絶対に変えられない神の言葉としての律法は、掟集や律法集としてではなく、物語として書かれた[15]。そのため、伝説を多く含んだ物語や、二つの物語を並べて編集した物語まで、神の言葉としての絶対的権威のもとに受け止められるようになった。

イスラーム教

イスラーム教において、初期のころは、他との調和をはかる拝一神教であったが、メディナ期になると、敵と戦う絶対的一神教に転化した。

ウスマーン版ムスハフ全体を通じて、神の呼称は一貫していないとされている。初期のメッカ時代には、その時期ではおもに「主」と「アッラー」が、用いられているとされる[16]。また、「われ」と言ったり、「われわれ」と言ったりする場面が数多くある[17]

神の存在について、ムスハフ解釈本では、二種類の姿が啓示されている。一つには、神は、「超越的・遍在的な人格神」としての姿であるとしている。これは、現代の宇宙論にも通用する姿であるといえる。もう一つは、神は、人間の上空にあって、全ての存在を支配している「高み座に座している人格神」であるとしている。そのどちらも、ムスハフでは、慈悲の神の姿として啓示されている[注 9]

啓示宗教における実存的な神としてみた場合、イスラームにおける「超越的・遍在的な人格神」は、ユダヤ教・キリスト教における「在りてある神」という神観念と同じであると見ることができる。
真理を破棄する神としての唯一神

イスラーム教の「ナスフ」についても参照

論理的な観点からすると、絶対者としての神の属性としては、慈悲・真理・善・調和等の具現、だまして支配しない、啓示に矛盾がないなどがあげられるようだ[注 10]

イスラームの場合、唯一神としての神の啓示の中に、「この宗教の啓示には矛盾が含まれている」という言葉が下されている[注 11]
矛盾した啓示を語る霊的存在

また、「神以外の存在から啓示が出ている場合、その啓示には、いろいろな矛盾が見つかるはずである」(コーラン4章84節)、という啓示は、偶像の存在を認めているという点で、拝一神教に近いといえる[注 12]。この啓示は、コーラン2章 106節の啓示とは正反対の位置にあることがわかる。「(この宗教の)神の啓示には、矛盾があるときがある」という言葉には、矛盾した啓示も神からの啓示であるとしているためである。このことから、ムハンマドに下された神の啓示には、二種類の神の姿が表れていることになる。一つには、矛盾のない神の啓示(拝一神教)であり、これは、クルアーンにおける最初期の啓示に当たる。もう一つは、矛盾した言動により最初期の教えを破棄(ナスフ)する、神ならざる的存在の啓示(唯一神)である。唯一神は、メディナ時代の啓示に見られる神観念であると見ることができる。
神の直接の啓示としてのクルアーンについての見解

アブラハムの神とされる唯一神は、霊的存在である天使ガブリエルを通して、直接、ムハンマドにクルアーン(ウスマーン版ムスハフ)(ムスハフ解釈本)として、多くの言葉を啓示している。アッラーとしての唯一神は、平和の神であると同時に、他宗教と戦争をする神でもある。ここに、大きな矛盾が存在するため、各宗教の信者の「アッラー」及び「ムハンマド」に対する見方は、様々なものとなっている。
イスラーム圏内における見解

メディナ時代の10年間において、イスラーム信者は、自分の周りに何か問題が起きると、それをムハンマドに相談することができた。そして、ムハンマドに相談するだけで、神様の方からそれに関する「啓示」が下されたとされる。その場合、信者は、別に改めて神にお伺いを立てなくても良かったと言われている。そして、そのお告げが、信者の問題に対する答えに該当していた、という現象が起きていた場合があったとされる。そのため、ムハンマドが生きていた間は、彼が生きた法典としての立場にあった。その後、神の啓示で、「何か問題があればムハンマドに聞け」という啓示があった。この啓示は、ムハンマドを立法者としての立場に立たせ、彼を王として決定づける方向に進んだ。
絶対的聖典を否定できない社会、での見解

クルアーンの示す神の啓示に基づいて国を維持してゆくためには、クルアーンに含まれる矛盾をそのままにしておいたのでは、国家が成り立ってゆかないと言える。神の真理とされるクルアーンに矛盾があると感じるのは、その背信者の解釈の仕方が誤っている、とされている。クルアーンには誤りがないとか、預言者に誤りはないというのは、帝国となった後の為政者が決めたことである。[注 13]
メッカ初期の教えとスーフィズムにおける見解

スーフィズムとは、個人的、実存的なイスラームであり、メッカ期の啓示の精神を原点として発展してきたものであると言える[18]

スーフィズム等の歩んできた「内面へのみち」というのは、だいたいにおいて、メッカ期のイスラーム信仰の系統であると言える。メッカ期のイスラームの特徴としては、人間の個人個人の宗教的実存の在り方に直面したものであった。罪を自覚した人間が、神の呼びかけに対して、どう応えてゆくかというものであった[19]

宇宙の内面的真理に通じていて、奇跡を行う能力を備えた人を聖者として信仰するスーフィズムもある。本来の自己存在がもともとは神と一体化したものであるということを知ることを目的として、霊性現成のために、内的に神と会えるように、修行をする。また、クルアーンには、2章109節や50章15節などに見れるように、「神が人間の内側に存在する性質もあること」を示す章句もある[20]

悟りの項目を参照
神の慈悲に基づく、現代的な見解

現代において、マララ・ユサフザイは、イスラーム教は平和の宗教であるとしている。彼女は、宗教という枠を越えた、世界規模での教育の普及を訴えている。彼女は教育を通して、ムハンマドやイエスやブッダから思いやりの心(慈悲の心)を学んだとしている。世界中の人々が、神の心の現れともいうべき「他を思いやる心で生きることができる」ように、教育の普及に向けた活動をしている[21]
クルアーンの啓示において、敵視されている宗教の見解
ユダヤ教の場合

ムハンマドの当時、ユダヤ教徒はムハンマドを預言者として認めなかった。その理由としては、ムハンマドの、ユダヤ教に関する啓示に問題があったことと、当時彼が九人の妻を持っていたことがあげられている。「結婚のことばかり考えている神の使徒というのは、ありえない」というのがユダヤ教徒の主張であったとされている[22]


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