唐木順三
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唐木 順三
からき じゅんぞう
誕生
1904年2月13日
長野県上伊那郡宮田村
死没 (1980-05-27) 1980年5月27日(76歳没)
東京都中央区築地
墓地宮田村駒が原墓地
職業文芸評論
国籍 日本
最終学歴ワシントン大学
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唐木 順三(からき じゅんぞう、1904年明治37年)2月13日 - 1980年昭和55年)5月27日)は、日本文芸評論家・哲学者思想家

京大で西田幾多郎に師事。『現代日本文学序説』(1962年)を書き、『?外の精神』(1943年)、『中世の文学』(1955年)と研究を進めた。反近代の思想を貫き『「科学者の社会的責任」についての覚え書』(1980年)を遺して死去した。
経歴

1904年(明治37年)、長野県上伊那郡宮田村に生まれる。旧制松本中学(現:長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校(現:信州大学)文科甲類を卒業後、1927年(昭和2年)に京都帝国大学文学部哲学科を卒業。西田幾多郎田邊元から多大な影響を受けた。

長野県諏訪青年学校、満州教育専門学校、法政大学予科、成田山新勝寺成田高等女学校で教鞭を執る。教職のかたわら、中正の態度を保持しながら近代文学研究から中世へと視野を広げ、多くの評論を発表した。特に中世日本仏教の研究が有名。

1940年(昭和15年)、同郷の古田晁臼井吉見と共に筑摩書房を設立し、中村光夫らと共に顧問となる。戦後は臼井と共に同社の雑誌『展望』の編集を行い、明治大学文学部の教授も長年務めた。1956年(昭和31年)に『中世の文学』で読売文学賞・文芸評論賞を受賞。1971年(昭和46年)日本芸術院賞受賞[1]

1980年(昭和55年)、肺癌により築地国立がんセンターで死去。76歳没。戒名は雪峰院不期順心居士[2]
著書

『現代日本文学序説』(春陽堂、1932年)

『近代日本文学の展開』(黄河書院、1939年)

『鴎外の精神』(筑摩書房、1943年、増補版1948年)

三木清』(筑摩書房[3]、1947年)(燈影舎[4]、2002年)

『作家論』(三笠書房(上・下)、1947-49年)

森?外』(世界評論社、1949年)(東京ライフ社、1956年)(現代教養文庫、1958年、復刊1993年)

『現代史への試み』(筑摩書房[3]、1949年) (燈影舎[5]、2001年) (中公選書[6]、2013年6月)

『自殺について - 日本の断層と重層』(弘文堂 アテネ文庫、1950年)、小冊子

『近代日本文学』(弘文堂 アテネ文庫、1951年)、小冊子

『近代日本文学史論』(弘文堂、1952年)

『詩とデカダンス』(創文社フォルミカ選書、1952年)(講談社 名著シリーズ、1966年)(中公選書[7]、2013年7月)

『中世の文学』(筑摩書房[3]、1954年)(中公選書[8]、2013年9月)

夏目漱石』(修道社現代選書、1956年、創文社、1966年)※

『詩と哲学の間』(創文社、1957年)※

千利休』(筑摩書房[3]、1958年5月)※

『無用者の系譜』(筑摩書房[3]、1960年2月)※、(中公選書[9]、2013年7月)

『朴の木』(筑摩書房、1960年5月)(講談社学術文庫、1977年)、随想集

『中世から近世へ』(筑摩書房、1961年)

『無常』(筑摩書房[3]、1964年)(ちくま学芸文庫、1998年)※、(燈影舎[4]、2006年)(中公選書[10]、2013年9月)

『日本の心』(筑摩書房、1965年)、随想集

『應仁四話』(筑摩書房、1966年)、小説集

『仏道修行の用心 懐弉 正法眼蔵随聞記』(筑摩書房「日本の仏教 第11巻」、1966年)


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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