唐宋変革
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唐宋変革(とうそうへんかく)は、唐代宋代の間に起きた大規模な変革である。それを中国史上の画期に位置づける学説を唐宋変革論という。大正時代内藤湖南が提唱し、その後の日本の東洋史学界に大きな影響を及ぼしている。

ただし、唐宋変革の位置づけについては中世から近世への変化とする学説(京大説)と、古代から中世への変化とする学説(歴研説)とがあり、両説を巡って激しい論争が展開された(中国史時代区分論争)。
概要

唐代から宋代にかけての中国史を唐宋変革期とする学説では唐代以前を貴族中心の時代と位置づけるのに対し、宋代では庶民が政治・経済・文化の中心になると解釈される。政治構造的には「君主独裁制」が宋代に敷かれるとする。日本の高等教育機関の東洋史の授業では唐宋変革論が中心的講義科目となっている。
経済

宋代に登場した士大夫は地主資本家などの経済人や儒教的教養人の顔を持っていた。南宋時代には華南の経済が急速に発展して江南地域の水田が大規模に開発された[1]。経済の発展で人口が急増し、宋の時代に世界で初めて人口1億人を突破する国家となった。農地面積が4倍近くに増加した。稲の品種改良や麦と稲作の二毛作、稲作の二期作が登場した。

宋代に絹織物産業と製紙及び木版印刷など手工業が発達した。造船技術が進歩して海上交通や貿易が盛んになった。農地の造成治水や作物の生産技術の発達で高度な農業社会に発展した[2]陶磁器産業の最盛期で朝鮮半島や日本などアジア諸国に輸出された。京杭大運河などが建設された。運河の開通で地方の農村と都市部を結ぶ交通網が発展して開封などの商業都市が繁栄した。南方の物資を北部に輸送する大運河が機能していた[3]農村市場町が多数誕生して社会が商業化した。

首都が開封に置かれたのは洛陽長安のような伝統的な政治都市よりも物流の中心となる商業都市を宋王朝が重視するようになったためであった。宋代の経済面の特徴は、商品経済と都市の発達である[4]

紙幣や信用証券が登場し、市場経済の発達に拍車をかけた[5]宋銭日本アジアとの朝貢貿易[6]などで広く流通した。
政治

魏晋南北朝・隋唐は門閥貴族層を中心とする律令政治が行われていた。皇帝権は弱体で、簒奪が多かった。宋代になると貴族制が崩壊し、後世に「君主独裁」と呼ばれる体制が構築されることとなる。また、官僚は「士大夫」と呼ばれる知識人層が中心となり、新たな政治の担い手となった[7][要ページ番号]。

こうした変化をもたらした要因の一つに、官吏登用制度の変化がある。魏晋南北朝における官吏登用制度であった九品官人法は門閥貴族の温床となっていた。隋代からは科挙が導入されたが、依然登用されるのは貴族が多く、政治構造に大きな変化をもたらすには至らなかった。しかし、宋代に科挙に殿試が導入されると、官僚の出自は大きく変化し、旧来の貴族は一掃された[7][要ページ番号]。士大夫と呼ばれた知識人の実家は地主や富裕な家庭であり、儒学などの教養の専門家だった[8]

王安石によって青苗法・募役法・保甲法・保馬法・市易法・均輸法・平準法などの様々な新法の改革が神宗皇帝の時代に実施された[9]

宋朝は閉鎖的な和平外交の国家となった。傭われた兵による常備軍の動員が優先された。君主独裁体制を強化して殿試・文治主義の手法が導入された。両税法は土地私有や私有財産制を大幅に認めたところに新しさがあった[10]
学術・思想

作文作詩の執筆技術が進歩して宋学宋詞が成立した[11]唐宋八大家などの文学者が活躍して古典の暗記が重視された時代であった。木版印刷が普及した事で経書や史書が多く流通して科挙受験者数が急増した。儒学の古典などの印刷が盛んになり書物の需要が高まった。大蔵経が盛んに印刷された。

私塾・義塾など民間の教育機関が都市部に設置され、農村では書院や村塾なとが唐から宋にかけての時代に急増した[12]朱熹陸九淵の学門以外に永嘉学など様々な儒教の学派が誕生した。士大夫層に禅宗が流行して民衆の間に浄土宗の信者が急増した。
科学技術

羅針盤の発明により、航海技術が大きく向上した。

火薬を用いた武器も発明され、それらはのちに南宋を併合したモンゴルによる征服活動とともに西洋にもたらされた。
研究史

内藤湖南が提唱したのが唐宋変革論である。それ以前は「唐宋八大家」の区分にみられるように、唐と宋の連続性を重視する見解が主流であった。これに対して唐宋変革論は、唐と宋を中国史上でも国家財政や経済文化の大変動が起きた時代と位置づける。これは日本の東洋史学界の主流を占める学説となり、後の時代区分を巡る論争においても、両派とも唐宋間で区分する点では共通していた。

内藤の死後は宮崎市定など京都学派(主に京都大学の研究者)に受け継がれた。京都学派の学説では、唐代までを中世として、宋代以降を近世とみなしている。宋代を近世とするのは、政治・経済・文化の多面的な変化はヨーロッパのルネサンスと共通点が多いことからである。
宋代の経済をめぐる論争

戦後の宋代史研究では生産の諸関係について、どれが基本的生産関係なのかその性格は何か種々の論争がされた。
唯物史観と「生産関係」

戦後の歴史学界、とりわけ歴史学研究会の研究者の大きな影響を与えていたのが、唯物史観である。その認識は以下を骨子とする。

人間が生きていくゆえで大事な事は衣食住など諸生活手段の生産である。水田水利事業など農業用地を改善した[13]

労働によって生産するのが経済で人間の諸活動の根源的なものである。人間は通常家族を構成して生産して互いの諸関係を結んでいる。賎民や奴婢が公的法的に宋の時代に姿を消していた[14]

農業をする労働者(小作人)で家族を構成しないもの奴隷である。奴隷は普通は大土地所有者(一般的大家族を構成している)の下で農業生産に従事している。このような生産関係を奴隷的生産関係と言う。


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