唐古・鍵遺跡
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唐古・鍵遺跡
唐古・鍵遺跡 大型建物跡・復元楼閣

種類弥生時代環濠集落
所在地奈良県磯城郡田原本町唐古・鍵
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度34分09.8秒 東経135度47分57.6秒 / 北緯34.569389度 東経135.799333度 / 34.569389; 135.799333座標: 北緯34度34分09.8秒 東経135度47分57.6秒 / 北緯34.569389度 東経135.799333度 / 34.569389; 135.799333

国指定史跡

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鍵遺跡

唐古・鍵遺跡(からこ・かぎいせき)は、奈良県磯城郡田原本町唐古および鍵にある弥生時代環濠集落遺跡。国の史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されている。
概要復元模型唐古・鍵考古学ミュージアム展示。

奈良盆地中央部、標高約48メートル前後の沖積地に位置する。現段階の調査で認知されている遺跡面積は約30万平方メートル。規模の大きさのみならず、大型建物の跡地や青銅器鋳造炉など工房の跡地が発見され、話題となった。1901年明治34年)、高橋健自が『大和考古雑録』の中で「磯城郡川東村大字鍵の遺跡」として紹介した事を始め、全国からヒスイ土器などが集まる一方、銅鐸の主要な製造地でもあったと見られ、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落ではないかと見られている。1999年(平成11年)に国の史跡に指定され、ここから出土した土器に描かれていた多層式の楼閣が遺跡内に復元されている。

2004年平成16年)11月24日、田原本青垣生涯学習センター2階に「唐古・鍵考古学ミュージアム(英語版)」を開設し、出土品などの展示を行っている。

2018年平成30年)に周辺が唐古・鍵遺跡史跡公園として整備された。また同時期に「道の駅レスティ唐古・鍵」が開業している。
遺跡の変遷大型建物遺構遺構展示情報館展示。復元楼閣

遺跡の範囲は、おおきく北地区・西地区・南地区・中央区の4つに分けて認識されている[1]
弥生時代

第1段階

初期(弥生時代前期初頭から前半)には西地区から北地区の微高地に居住区などが存在したと考えられる。この頃は周辺に川が流れる中州状であったとされ、人工的な環濠があったとは考えられていない。この時期の土器は、弥生土器の古い型式と縄文土器の晩期の型式が共伴するが、縄文土器は周辺の集落との交易で持ち込まれたものと考えられる。また、多数の土坑とその内部から未完成の鍬や鋤などの木製品が検出されているが、これらは製作途中の木製品やその材料を水漬け保存したものと考えられており、集落は周辺集落に木器を供給する生産拠点でもあったと推定されている[2]

第2段階

集落の第2段階(弥生時代前期後半から中期初頭)でも、引き続き未完成の木器貯蔵穴が検出され、農耕具や斧などの工具・高杯などの容器類が出土している。また、西地区からは流紋岩製石包丁とその原石や未完成品などが大量に発見されており、石包丁の製作工房があったと考えられる。流紋岩製石包丁は弥生時代前期に見られる農具で、材料は集落から直線距離にして6qほどの耳成山から採取されたものとされる。このころには集落の範囲が南地区にも広がり、弥生時代前期末頃には各地区を区画する大溝が掘られた。この溝は湿地の排水を目的としたものと考えられ、短期間で埋没する[3]

各地区のなかでも西地区の集落が最も大きく、総柱の大型建物跡が検出されている。建物の全容は明らかではないが集落の中心的な建物と推定され、梁行2間(7m)桁行5間以上(11.4m以上)の南北に長い建物で、独立棟持柱をもつ。柱穴には直径60pのケヤキ3本とヤマグワ1本の柱が残存していたが、このケヤキの伐採時期は炭素年代測定法により紀元前5世紀ごろのものと、紀元前4世紀から3世紀のものという結果が示されている。このうち古い柱は転用された可能性があり、この建物の前身となったより古い大型建物が存在した可能性がある[3]

また、同時期の墓として北地区の北東はずれから木棺墓、南地区南東部から方形周溝墓が検出されている。木棺墓のうちひとつは保存状態がよく、頭骨を含む人骨が出土した。木棺の炭素年代測定では2100年前との結果が得られて弥生時代であることが確認されたが、一方で人骨を調査した馬場悠男が「とても弥生時代の人骨に見えず、江戸時代のものではないかと思った」と話すほど現代人に近い様相をもち、被葬者は大陸系の人物と考えられている。なお、木棺墓と方形周溝墓の違いが時期によるものなのか、それとも埋葬形態の違いであるかは不明である[3]

第3段階

第3段階(弥生時代中期前葉)は、周囲に環濠が巡り、集落がもっとも繁栄した時期とされる。環濠の造成はいくつかの段階を踏んでいると考えられる。まず各地区を囲むような環濠が掘削されたが、すぐにこれは埋め戻された。続いて集落全体を取り囲むように幅7m、深さ1.5mから2m程度の大環濠が造成された。さらに大環濠の外側に3条から5条のやや小規模な環濠が掘削され、環濠帯を形成する。最も外側の環濠は、全長は2qに達すると推定され、相当の年月と人工を必要とした土木工事とされる。環濠に湛える水は流水であったと考えられ、環濠集落の出入りは陸橋ではなく、木橋であったと推定される。集落の南東部にあたる環濠からは橋脚と思われる径30pの柱が検出されている[4]

西地区北側からは、前述のものとは別に中期初頭と考えられる大型建物跡が検出されている。梁行2間(6m)桁行6間(13.2m)の総柱の建物であるが、柱穴から少なくとも2回の建て替えが行われたと考えられる。検出された柱は炭素年代測定法により紀元前4世紀から3世紀との結果が得られた。その周囲にも全容はつかめていない大きな柱穴が見つかっており、大型建物とそれを取り巻く施設が配置されていたと推測されている[5]

この第3段階から集落内に井戸が掘られた。井戸からは祭祀にまつわると考えられる長頸壺や水差形土器などが検出されることが多いが、中でも西地区で発見された大型井戸は、使われなくなった後に卜骨や炭化した雑穀を入れた壺、獣骨などが供献されている。また、この大型井戸から出土した甕と接合する土器が、大量のイノシシの下顎骨と共に集落北西側の大環濠から出土しており、炊いた穀物・占い・イノシシの下顎を用いたマツリゴトが行われていたと推定されている。また、大量のもみ殻を投棄した井戸もあり、この時代に脱穀が行われていた事が確認された[5]

南地区には鋳造関連遺物が出土し、青銅器工房があったと推定される。工房が展開したのは中期末から後期初頭にかけてと推定され、炉跡を中心に鋳型などが出土している。また、集落西南部には近江・紀伊地方からの搬入土器が多く出土する地区、北部にはサヌカイトがまとまって出土する地区、南部には木器の未完成品が出土する地区など特色がみられ、エリアごとに異なる役割をもつ集落構造であった可能性がある[5]

この時期の墓は、集落外縁部に土壙墓、あるいは甕を転用した小児の墓が検出されている。ただし、同時期の奈良盆地の遺跡と同様に、中心となる成人用の墓域は集落から離れた場所に作られたと推定されている。その場所は、周辺の清水風遺跡や阪手東遺跡などの方形周溝墓である可能性が指摘されているが、集落の人口に見合う規模や権力を象徴するような遺物は無く、確定できていない[5]

第4段階

第4段階(弥生時代後期)は、集落が被災・再生・発展した時期である。弥生時代中期後半から末にかけて集落各所で洪水跡が確認されており、繰り返し災害に見舞われたことが分かっている。特に中期末の洪水は集落全体を押し流したと考えられ、また近畿一円の弥生時代中期の遺跡においても痕跡が確認されることから、広域大規模災害であったと考えられる。ただし、他の拠点集落が廃絶・解体・移動を行うのに対し、唐古・鍵遺跡では位置を変えずに再建しさらに規模を拡大したと考えられており、こうした様相は特徴の一つとなっている[6]

環濠は弥生時代中期末の洪水で埋没するが、後期初頭には再掘削が行われて復活。後期前半には溝さらえなどが行われて維持されていたが、大半の環濠は後期後半に大量の土器の投棄によって埋められている。さらに最後の環濠も弥生時代終末期に埋められて、環濠は消滅した。一方で、弥生時代後期の土器が多数検出されており、依然として集落の生産・消費活動は衰えていなかったと推定されている。また、集落内に方形周溝墓が作られるようになり、特に南地区は墓域として再整備されたと考えられる[6]

第5段階

第5段階(弥生時代終末から古墳時代前期)は、大環濠帯が消失した時期にあたる。環濠は前段階で埋められ機能を失ったが、集落は存続していたと考えられる。ただし出土する土器では、古墳時代最初期の庄内式甕は顕著ではなく弥生形甕が中心となっており、同時期に繁栄した奈良盆地南東部の纒向遺跡などとは様相が異なっている。続く布留式土器が出土する古墳時代前期では遺構遺物ともに数が増し、山陰系の土器が出土するなど、交易が行われていたと推定される。また、北地区・南地区・西地区などで弥生時代中期から後期の環濠が再掘削され、古墳時代前期に環濠集落が復活したと考えられている[7]


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