唐叔虞
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唐叔虞(とうしゅくぐ、生没年不詳)は、中国の王族・諸侯。の前身であるの建国者である。名は虞。字は子于[1]。青銅器「叔?方鼎」の銘文では、名は?。
逸話

周の武王邑姜のあいだの子として生まれた。邑姜がかれを身ごもったとき、夢に天帝が現れ、「わたしはその子を虞と名づけるよう命じる。その子に唐の地を与え、参星に子孫を養育させよう」といった。子が生まれると、その手に「虞」の形の掌紋があった。このために虞と命名された[2]。武王が死去し、成王が即位すると、唐に反乱が起こったため、周公旦が唐を討ち滅ぼした。あるとき成王が叔虞と戯れて、桐の葉を削って珪を作り叔虞に与えると、「汝をここに封じよう」といった。太史の尹佚が日取りを選んで叔虞を国君に立てるよう奏上した。成王が「わたしが叔虞に珪を与えたのは戯れただけだ」というと、尹佚は「天子に戯れの言葉はありません。天子の言葉は史官が記録し、礼官が実行し、楽官がこれを歌うのです」と答えた。そこで成王は叔虞を唐に封じた。唐は黄河汾水の東にある百里四方の国であった。このため唐叔虞と呼ばれた。唐叔虞が死去すると、子のが後を嗣いだ[1]
脚注^ a b史記』晋世家
^春秋左氏伝』昭公元年による。『史記』晋世家も似た話を伝えるが、そこでは夢を見たのは邑姜ではなく武王である。

先代
- 君主
紀元前11世紀後半次代
晋侯燮










の君主


唐叔虞

晋侯燮

武侯

成侯



靖侯前858-前841

釐侯前840-前823

献侯前822-前812

穆侯前811-前785

殤叔前784-前781

文侯前780-前746

成師(桓叔)の曲沃就封で、晋は翼の宗家と曲沃の分家に分裂
翼宗家

昭侯前745-前739

孝侯前739-前724

鄂侯前723-前718

哀侯前717-前710

小子侯前709-前706

晋侯緡前706-前679断絶

曲沃分家

桓叔前745-前731

荘伯前731-前716

武公前716-前678

曲沃の武公が翼の晋侯緡を滅ぼし、晋が再統一される


武公前678-前677

献公前676-前651

奚斉前651

卓子前651

恵公前650-前637

懐公前637-前636

文公前636-前628

襄公前627-前621

霊公前620-前607

成公前606-前600

景公前599-前581

前580-前573

悼公前572-前558

平公前557-前532

昭公前531-前526

頃公前525-前512

定公前511-前475

出公前474-前457

哀公前456-前438

幽公前437-前420

烈公前419-前393

孝公前392-前378

静公前377-前376

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