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品川 隆二
本名奥秋 潔(おくあき きよし)
別名義奥秋 不二夫(旧芸名)
生年月日 (1933-04-11) 1933年4月11日(91歳)
出生地 日本, 山梨県
職業俳優、作詞家、ナレーター
ジャンル映画、テレビドラマ
活動期間1951年 -
主な作品
映画
『女中さん日記』テレビドラマ
『忍びの者』
『素浪人 月影兵庫』
『素浪人 花山大吉』
『さむらい飛脚』
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品川 隆二(しながわ りゅうじ、1933年4月11日 - )は、日本の俳優、作詞家、ナレーターである[注 1]。山梨県出身。 1933年4月11日(火曜日)、山梨県南都留郡宝村(現・都留市)中津森に生まれる。旧制都留中学3年の時、兄を交通事故で亡くし家出を決行し上京。 その後、母親の援助を受け都内の旧制専門学校などを転々とするが、次第に愚連隊に関わるようになる。そんな戦後の学制改革のドサクサの中、戸籍抄本に細工をして年齢を詐称し[1]東洋大学に入学する。 1951年、「ミスターニッポンコンテスト」(スポーツニッポン社と大映が主催)の5人に選ばれ、同年12月大学を中退し、大映演技研究所6期生となる(若尾文子より3か月遅れ、同期のニューフェイスには南原宏治がいる)。1952年、正式入社となるも仕出しの扱いを受け、月給3500円で通行人等で映画出演。最初の芸名は「奥秋不二夫」である。 1954年、ようやく役がつくようになる(これまでこの年に大映入りしたと報道されてきた)。 川口浩(川口松太郎の息子)がデビューする際、大映は6期生の奥秋も売り出そうと計画、鳴り物入りでデビューする「川口」にちなんで、「同じ京浜東北線の駅名がよい」と「品川隆二」と名づけられる。これ以降、京浜東北線の駅名に由来する芸名は「鶴見丈二」、「川崎敬三」と続いた。 1956年、『女中さん日記』で初主演。泉鏡花原作、市川崑監督のカラー大作『日本橋』の葛木晋三役に抜擢(ばってき)され[注 2]、映画はヒット。これ以後、二枚目役を続け『高校生と殺人犯』に主演。 1957年以降、大映社長永田雅一の一人息子である永田秀雅[注 3]と恋敵になったこと[注 4]をきっかけに、冷遇を受け、端役に回されるようになる。 1959年、大晦日付で大映退社。1960年、第二東映に移籍し、これまで現代劇がほとんどだったが、時代劇出演が続くことになる。『次郎長血笑記』で準主役の森の石松役を得て、『砂絵呪縛』で本格的に時代劇を意識し始める。『あやめ笠 喧嘩街道』、『百万両秘帖(前後篇)』に主演。 1961年、ニュー東映『情無用の喧嘩状』、『旅がらす花嫁勝負』、『首なし島の花嫁』に主演。『柳生武芸帳』シリーズ(1961 - 1963年)では、近衛十四郎演じる柳生十兵衛の敵役など複数の役で活躍する。 1962年、東映『壁の中の美女』、『怪談三味線掘』に主演。以後、脇役が中心となる。 1964年、テレビ時代劇『忍びの者』で、主役の石川五右衛門を演じる。1962年に市川雷蔵主演でヒットした大映制作の同名映画のテレビ化作品だが、後年のTV作品で見せたコミカルさを微塵も感じさせないシリアスな役どころであった。
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