「お台場」のその他の用法については「台場 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度37分48秒 東経139度46分30秒 / 北緯35.63度 東経139.775度 / 35.63; 139.775
上空から見た「東京港埋立第13号地」の全景お台場(おだいば)は、東京都の特別区南部東京港に位置するエリア。
港区台場・品川区東八潮・江東区青海からなる埋立地「東京港埋立第13号地」北部の商業地を指す。南部全域を占める青海三丁目・四丁目を除く。
また、広義では、隣接する「東京港埋立第10号地」北部を含む「東京臨海副都心」全体や、「東京港埋立第13号地」全体を指す。 1853年(嘉永6年)、ペリー艦隊が来航して幕府に開国要求を迫る。これに脅威を感じた幕府は、老中首座の阿部正弘の命で品川台場(お台場)を築造した[1]。江戸の直接防衛のために海防の建議書を提出した伊豆韮山代官の江川英龍に命じて、洋式の海上砲台を建設させた。品川沖から深川洲崎にかけての海上に11基[2]ないし12基[3] の台場を一定の間隔で築造する計画であった。工事は昼夜兼行で進められ[4] [注釈 1]、およそ8か月にわたる工期で1854年(嘉永7年)にペリーが2度目の来航をするまでに砲台の一部は完成し、品川台場(品海砲台)と呼ばれた[3]。お台場という呼び方は、幕府に敬意を払って台場に「御」をつけ、御台場と称したことが由来である[注釈 2] 。埋め立てに用いる土は高輪の八ツ山や御殿山、泉岳寺の山を切り崩して調達し、それらの前の海岸から船で運ばれた[2]。また、そのために東海道の高輪通りを昼間は通行止めにした[5]。 ペリー艦隊は品川沖まで来たが、この砲台のおかげで横浜まで引き返し、そこでペリーが上陸することになった。台場は石垣で囲まれた正方形や五角形の洋式砲台で、まず海上に第一台場から第三台場が完成、その後に第五台場と第六台場が完成した[3]。第七台場は未完成、第八台場以降は未着手で終わった[3]。第四台場は7割ほど完成していたが工事は一旦中断され、7年後に工事が再開されて完成した[3]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}第四台場は後日、造船所の敷地となった。また第四台場の代わりに品川の御殿山のふもとに御殿山下台場が建設され、結局、合計8つの台場が建設された。[要出典]現在は台場公園として開放されている第三台場と、他の埠頭などとつながっていない第六台場が残されている。 完成した台場の防衛は江戸湾の海防を担当していた譜代大名の川越藩(第一台場)、会津藩(第二台場)、忍藩(第三台場)の3藩が担った。 この砲台は十字砲火に対応しており、敵船を正面から砲撃するだけではなく、側面からも攻撃を加えることでその損傷を大きくすることを狙ったものである。2度目の黒船来襲に対し、幕府はこの品川台場建設を急がせ、佐賀藩で作らせた洋式砲を据えたが、結局この砲台は一度も火を噴くことなく開国することとなった。第三台場 台場公園の一部
歴史品川台場に設置されていた80ポンド青銅製カノン砲(遊就館蔵)
江戸時代
明治時代
1875年(明治8年):海上の7つの台場が陸軍省の所管となる。明治中期には東京湾要塞の建設が始まったこともあって台場の重要性が減り、以後徐々に払い下げられることとなる。
1878年(明治11年):芝区の成立に伴い、海上の7つの台場(第一 - 第七台場)は芝区に所属し、それぞれ東京府芝区大字品川沖1 - 7番地となる。大正の初めまでに町名の品川沖は品海砲台に変更となる(詳しい時期は不明)。
大正・昭和
第六台場 無人島1912年(大正元年):第四台場が民間人に払い下げられ、造船所となる。
1915年(大正4年):第三台場・第六台場が東京市に払い下げられ、史跡公園として整備されることになる。