哀帝_(漢)
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哀帝 劉欣
前漢
第13代皇帝

王朝前漢
在位期間綏和2年4月8日 - 元寿2年6月27日
前7年5月7日 - 前1年8月15日
都城長安
姓・諱劉欣
諡号孝哀皇帝
生年河平4年(前25年
没年元寿2年6月27日
前1年8月15日
劉康
母丁姫
后妃傅皇后(中国語版)
陵墓義陵
年号建平 : 前6年 - 前3年
太初元将 : 前5年
元寿 : 前2年 - 前1年

哀帝(あいてい、紀元前25年 - 前1年)は、前漢の第13代皇帝元帝の孫にあたる。

腹心の董賢男色の関係にあったと伝えられ、「断袖」の故事で知られる[1]
生涯

                        
        
     
王禁        

                          
      
 王曼 王政君 元帝 傅昭儀   傅晏
    
                          

 王莽   成帝 劉康 丁姫     
  
                        

             哀帝   傅皇后
   

定陶王時代

河平4年(前25年)、元帝の側室の孫にあたる父の定陶恭王劉康と丁姫の間に生まれる。丁姫はあまり養育に関わらず、才知と宮中での人望のあった祖母の傅氏(元帝の昭儀)から熱心に養育された[2]

陽朔2年(前23年)、父の定陶恭王が死去したため3歳で爵位を継承し、定陶王の後嗣となった。成長してからは文辞や法律を好んだとされる[3]元延4年(前9年)、17歳の時に、漢の都の長安に入朝する。伯父にあたる成帝の質問に明確に回答し、さらなる質問にも答えて『詩経』の内容も暗唱し、その意味をはっきりと説明することができた[4]。そのため成帝は劉欣をすぐれた人物とみなし、その才能を賞賛したという[5]

祖母の傅氏は孫の劉欣を皇太子に据えるべく策略を巡らせ、成帝の皇后であった趙飛燕(孝成皇后)と票騎將軍であった曲陽侯王根に賄賂を贈った。趙飛燕と王根は成帝に子がなく、今後の自分たちの立場を考えて、劉欣を後継者に指名するよう成帝に勧めた。成帝も劉欣の才能を優れていると考え、元服させて国に帰した。

元延5年(前8年)、劉欣が18歳になると、成帝は劉欣を皇太子に立てる事とした。劉欣は一度は辞退したものの、結局は立太子され都に招聘された。以降は元帝の后であった王太后(王政君)のはからいで、10日に1回、祖母の傅氏や母の丁氏と面会できる事となった[2]
皇帝即位

綏和2年(前7年)3月、成帝が死去すると、太皇太后となった王政君皇太后となった趙飛燕の後楯により、劉欣は19歳で即位し、後世に「哀帝」と呼ばれるようになる。父の定陶恭王劉康を尊び、恭皇と称した。

漢書』哀帝紀の賛によれば、哀帝(劉欣)は、成帝までの時代に権力が外戚に移っていた状況を見て、朝廷に臨んでは大臣を厳しく罰して、人主の威厳を強めて、武帝宣帝をみならおうとしていた。哀帝は、音楽や女色は好まず、ただ、弓射と角力(すもう)を見学することはしばしば行った。皇帝即位後には、両足に障害があったようである。

20世紀の日本の中国史学者である東晋次は、「哀帝は法律好みのところがあった」、「哀帝の性格は、元帝や成帝より宣帝に近く、(強権によって治める覇道(法家)と、徳をもって治める王道(儒家)をうまく使い分けながら行う統治方針である)漢王朝の伝統的統治方針に忠実な皇帝であったとみなしてもよい」と評している[6]

成帝の時代に、大司馬王莽が任じられていたが、(王莽の伯母にあたる)王政君は、王莽に詔を出して、哀帝の外戚の傅氏と丁氏を避けさせた。王莽は哀帝に辞任を願ったが、哀帝は詔を出し「先帝(成帝)は、君に委任したまま、崩御された。朕は君と心をあわせることができると喜んでいたのに、君は病と称して辞職を求めている。朕ははなはだ心を痛めている。君の(辞任を撤回する)奏上を待っている」[7]と語り撤回を望んだ。

哀帝は、さらに丞相孔光大司空何武・左将軍の師丹・衛尉の傅喜を王政君のもとに派遣し、「皇帝(哀帝)は太后(王政君)の詔をきいて、とても悲しんでおられます。大司馬(王莽)が政務に参加されないなら、皇帝は政治を行うことはされないでしょう」と伝えさせた。そこで、王政君は王莽に政務に参加させることにした[7]
尊号問題

即位した直後、高昌侯董宏は『春秋』の『母は子をもって貴し』との故事を引用して、哀帝の実母の丁姫に尊号を贈るよう進言した[8]。しかし、王莽と師丹は、董宏が道に外し、朝廷を誤らせるものとして弾劾した[9]。即位したばかりであった哀帝は王莽らに譲歩し、董宏を罷免して庶人に落とした。しかし傅氏はこれに激怒し、必ずや尊号を称したいと哀帝に要求した[10]

5月、皇后を祖母の一族の女性である傅氏に選び、実母の丁姫に恭皇后、実祖母の傅氏には恭皇太后の尊号を贈り、外戚にあたる傅氏の一族と丁氏の一族を列侯に封じた。20世紀の日本の中国史学者である渡邉義浩は、「哀帝は、王氏出身の元太皇太后(王政君)に対抗するため、祖母の定陶太后(傅太后)と母の丁姫に尊号を与えようとしていた」としている[11]。この「恭」の文字は「藩国」を意味する文字であり[12]。郎中令の冷褒・黄門郎の段猷らはこの「恭」の文字を使う事に反対し、また長安に恭皇の廟を立てることを求めた。これには多くの有司が賛成したが、師丹は「尊卑の序列を乱す」などといった理由で反対した[13]。東晋次は、「この対立の背景には、宣帝に類似した哀帝の法家的な統治方針を支持する朱博らの党与と、師丹・王莽らの儒家の教説を奉じる一派との対立があった」と分析している[14]

後日、未央宮において宴会がなされた時、内者令が、哀帝の実祖母の傅太后の席を、太皇太后である王政君の横に置いた。これを見た王莽は巡回し、「定陶太后(傅太后)は、藩妾(「藩」王である定陶王の母であり、かつての成帝の側室(「妾」)という意味)である。なにをもって、至尊と並べるのか!」と内者令を責めた。王莽は、傅太后の席を撤去して、別に設けさせた。これを聞いた傅太后は激怒し、宴席に来ずに、さらに王莽を恨み怒った[7]

東晋次は、「王莽や師丹が傅氏や丁氏に対する尊号奉上に反対する背景には、王氏と傅氏の宮廷における序列、そこから生まれる政治的権威の問題が存在した。王莽にとって傅氏が元后(王政君)と同列になることはどうしても避けねばならなかった。表面上は尊号という制度上の一問題にすぎないけれども、王氏と傅氏・丁氏との激烈な権力闘争がその根底に横たわっていると見るべきであろう」としている[15]

そこで王莽は再び辞任を要請した。哀帝は、黄金500斤と馬車を王莽に与え、屋敷に帰らせた。哀帝は特別の恩寵として、10日に1度、使者を王莽の屋敷に送ることとし、「新都侯王莽は、国家のために悩み苦しみ、義を守ること堅固で、朕はともに政治を行うことを願っている。太皇太后(王政君)は詔を行い、王莽を屋敷に帰したが、朕はとても憂いてる。そこで、黄郵聚の350戸を王莽に増して与え、位を特進とし、給事中に任じて、月の1日と15日に朝見させ、天子にまみえる礼は三公の通りとして、車でのおともをさせる」との詔を発した。そこで、王莽はこれから2年、このようにして、朝廷に仕えた[7]

哀帝は、左将軍の師丹を、王莽に代えて、大司馬に任じた[16]

6月、即位に功績のあった曲陽侯王根に2千戸、太僕・安陽侯王舜は500戸、丞相の孔光と大司空の何武にそれぞれ千戸を与えた。


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