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和達 清夫
和達 清夫
生誕 (1902-09-08) 1902年9月8日
愛知県
死没 (1995-01-05) 1995年1月5日(92歳没)
東京都
腹部大動脈破裂
国籍 日本
研究分野気象学、地震学
研究機関気象庁
埼玉大学
出身校東京帝國大学理学部物理学科
主な業績深層地震の立証
影響を
与えた人物倉嶋厚
主な受賞歴文化勲章(1985年)
プロジェクト:人物伝
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和達 清夫(わだち きよお、1902年(明治35年)9月8日 - 1995年(平成7年1月5日))は、日本の地球物理学者[1]・歌人。専門は、気象学・地震学。理学博士[2](東京帝國大学・1932年)。初代気象庁長官。深発地震の存在を証明し[3]、分布を指摘してプレートテクトニクスに先鞭をつけた[4]。
愛知県名古屋市生まれ[4]。息子に物理学者・和達三樹がいる。 西須諸次(さいす もろじ)の名[注 1]でエッセーを執筆した。 天王寺中学、東京開成中学、一高を経て、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}1922年4月[疑問点 – ノート]に東京帝國大学理学部物理学科を卒業。中央気象台に入り[4]、1932年、東京帝國大学から理学博士の学位を取得[2]する。 第6代中央気象台台長(1947年)につくと組織改変により初代気象庁長官に就任(1956年-1963年)。退官後は防災科学技術センターの所長[4]を経て第4代埼玉大学学長(1966年-1972年)に任ぜられる[5]。 長官在任中は第5期日本学術会議議長(1960年)を兼任し、1974年に第17代日本学士院院長[4]に選ばれた。 環境関連では和達は中央公害対策審議会 1940年代後半から日本気象学会に於いて理事長を始めとして指導的地位にあり後進の育成に努め[注 3]、1969年には名誉会員となった[11]。 地震のエネルギーを現すマグニチュードは、和達の研究がヒントになって作られたものである。また深発地震を発見したこと[16][17][18]でも知られ、和達-ベニオフ帯(和達-ベニオフ面とも)に和達の名が今も残っている。 沖縄戦で犠牲となった沖縄地方気象台職員の慰霊碑が、沖縄県糸満市に『琉風之碑』として建立されるにあたっては和達が自ら碑文を揮毫(きごう)し、慰霊碑の傍らに自作「夏草の原に散るべき花もなく」を刻んだ歌碑も設置された[11][19]。 父の和達陽太郎は電気技術者で逓信省の技師や名古屋電灯役員を務めた人物[20]。祖父の和達孚嘉は江戸幕府の旗本から宮城県職員などを経て第5代仙台市長を務めた[21]。 一般向けには以下の随筆がある。
経歴・人物
功績
栄誉栄典
日本学士院恩賜賞 1967年
文化勲章 1985年
家族・親族
著書
単著
『大地雲の話』(社会教育協会 1927年)
『地震學』(中央気象台附属測候技術官養成所 1929年[22])
『岩波講座 物理及ビ科学 宇宙物理学・地震観測法』(岩波書店 1929年)
『地震』(鉄塔書院〈鉄塔科学選書〉1933年)。
〈中公文庫〉に改版、1993年
『地球と人』(岩波書店〈岩波叢書〉 1941年)
西須諸次[注 1]『あく迄希望あれ 西須諸次肺病文叢第一集』(自然療法社 1941年)
『沈まぬ都会』(朝日新聞社 1949年)[23]
『青い太陽』(東京美術〈ピルグリム・エッセイシリーズ〉1971年)