和菓子(わがし)は、日本の伝統的な菓子のこと。和菓子は生菓子と干菓子に分けることができる。明治時代以降にヨーロッパなどから新しく日本に入ってきた洋菓子に対する言葉で、餅菓子、羊羹、饅頭、最中、落雁、煎餅などが含まれる。また遣唐使がもたらした唐菓子、近世にスペイン・ポルトガル・オランダからもたらされ日本で独自の発展を遂げた南蛮菓子も和菓子の一種として扱われる[1]。
洋菓子と比べて油脂や香辛料、乳製品などの調味料を使うことが少なく、米・麦などの穀類、小豆・大豆などの豆類、葛粉などのデンプン、および砂糖を主原料としたものが多いのが特徴である[2]。特に豆類を加工して作る餡が重要な要素となるものが多い[3]。一般に緑茶に合わせることを想定して作られており、日常的な茶請け菓子として親しまれているだけでなく、茶の湯との関係も深い[2]。その他各種の年中行事や慶弔事における引き出物などにも用いられる[4]。四季との結びつきが強いことも特徴の一つで[5]、特に上生菓子(じょうなまがし)と呼ばれる上等な生菓子では、各種の製法を駆使し、味だけでなく視覚的な美しさが豊かな季節感をもって表現されている。
江戸時代、和菓子は比較的平和な社会と文化的・経済的発展の恩恵を受けて大いに発展し、現在に通じる様々な和菓子が生み出されて日本各地の和菓子文化が花開き、根本的に和菓子を現在のようなものにした。四季毎の風情をかたどった様々な色と形状をした日本独特の生菓子である練り切りもこの時代に生まれた[6][7][8]。
歴史.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}饅頭。中国からもたらされた当時は点心の一種で野菜や肉が入った料理だったが、その後に改良が加えられ、室町時代に現在の饅頭につながる原型が誕生した[7][8]。羊羹。中国からもたらされた当時は点心の一種で羊の肉を使った汁物であったが、累次にわたり改良が加えられ、1600年代の寒天の発明を経て1800年頃に現在主流の羊羹が誕生した[7][8]。ポルトガルからもたらされた南蛮菓子のひとつカステラ。日本で独自に発展し、伝来時とは大きく異なる菓子になっている。
古代の日本人は稲、粟、稗などを主食とし、狩猟や漁撈などによってタンパク質を得ていたが、そのほかにも空腹を感じると野生の木の実や果物をとって食していたと考えられ、これが間食としての菓子のはじまりであろうと考えられている[9](果物はかつて「水菓子」と呼ばれていた[10])。初めは生のまま食べていたが、次第に保存のため乾燥させたり、灰汁を抜いた木の実の粉で粥状のものを作ったり、あるいは丸めて団子状にしたりするようになり、現代の団子や餅の原型となるものが作られるようになっていった[10]。『古事記』『日本書紀』においては、垂仁天皇の命で田道間守が不老不死の理想郷に赴き、10年の探索の末に非時具香菓(ときじくのかくのみ、橘の実とされる)を持ち帰ったと記されており、これによって果子(果物)は菓子の最初とされ、田道間守は菓祖神とされている[11]。
文武天皇の治世の704年には遣唐使の粟田真人によって唐菓子が日本にもたらされた。これらの食べ物は米、小麦、大豆、小豆などを粉末にして練ったものを主体とし甘味噌で味付けし油で揚げたものであった[7][8][10]。これらの菓子は仏へのお供え物や祭神用として尊ばれ、現在でも熱田神宮や春日大社、八坂神社などの神餞などとしてその形を残している。奈良時代の754年には鑑真によって砂糖や蜂蜜が、平安初期の806年には空海によって煎餅の製法が伝えられたが[12]、砂糖を使った現在のような様々な和菓子が広く作られるのは850年後の江戸時代からである[8]。
鎌倉時代には、宋から茶苗を持ち帰った栄西によって茶の栽培と普及が進められて喫茶文化が広まり[注釈 1]、茶と共に菓子を食べる習慣が日本に導入された。喫茶文化と共に伝わったのが点心であり、そのうち現在の和菓子につながるものとしては饅頭と羊羹があるが、それらは今日の和菓子とはかなり異なっており菓子というよりはむしろ料理であった[7][8]。例えば、饅頭は汁物と漬物と一緒に箸で食べる料理であり中の具として野菜などが入っていた[7][13]。一説によると、饅頭は仁和寺の第二世龍山徳見に弟子入りした林浄因によってもたらされたとされ、浄因は奈良の村に定住して日本における最初の饅頭である「奈良饅頭」を売り出したとされる。饅頭には当初中国のものにならって羊豚の肉が餡として使われていたが、当時の日本には肉食の習慣がなかったため、浄因は肉の代わりに豆類餡を入れたものを創案し、それが全国に波及したとの伝承がある[14]。その後、室町時代に砂糖を使う饅頭が誕生し、これが現在の饅頭の原型とみられている[7]。またこの時代にもたらされた羊羹も元々は羊の肉が入った汁物であったが、日本には肉食の習慣がなかったため小豆を使用したものに改良されて、さらに汁が取り除かれ、1600年代に日本で寒天が発明された後に1800年頃に現在の寒天に発展した[8][10]。
室町時代にはポルトガル、スペイン、オランダの宣教師たちにより、カステラ、ボーロ、金平糖、カルメラといったいわゆる南蛮菓子がもたらされ、小麦粉や砂糖を使ったこれらの菓子は和菓子の製法と発展にも大きな影響を与えた[15]。