和船
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広島県内海町漁協所属の打瀬船「内海丸」、2007年5月の最後の航海。広島観音マリーナにて。滋賀県西浅井町(現長浜市)の「丸子船の館」に保存されている丸子船の船首部分江戸時代に工楽松右衛門が開発した、通称「松右衛門帆」。明治時代の廻船台湾蘭嶼のヤミ族の船「タタラ」

和船(わせん)とは、日本において発達し、移動や漁業に用いられる構造船及び準構造船の総称である。
総説

和船はその構造において海外の船と大きく異なる形で発展した。海外の船では応力を、竜骨や肋材といった梁部材で受けるという構造でありこれは大型化を容易にした。一方和船は有史以前の丸木舟からの発達である所までは同様であったが、その後にそのような部材は持たず厚板を必要な強度で継ぎ合わせた構造で発展を遂げた。

船形埴輪に見られる古墳時代の準構造船、諸手船明治時代打瀬船、あるいは丸子船高瀬舟など内水面で使用された船舶に至るまで[1]、日本の船舶は基本的には全てそのような基本構造のもとにあった。和船はこのような基本構造のもとに日本各地の風土や歴史に応じて多種多様な発展を遂げた船舶の総称である。

ただしすべての日本で建造された船舶がそのような構造をとっていたわけではない。平安時代遣唐使船や江戸時代初期の朱印船等は、ジャンクの構造を取り入れており、江戸後期の三国丸は日本、中国、オランダの船舶の特徴をあわせもった船というコンセプトで建造されていた。このように主に外洋船を中心として例外は存在していた。

古代船復元船
なにわの海の時空館展示。

遣唐使船復元船

主な構成要素

和船にだけという要素は存在しない。しかし要素の選択の傾向という点では和船は明らかに独自性を持っている。まず船体の構造について見ると、船底材に舷側材を棚の形で継ぎ足していくという点が、和船全てに共通する特徴である(ただしこうした特徴はミクロネシアポリネシア航海カヌーにも顕著なので、和船独自の特徴とは言えない)。船底材は最初期の準構造船においては単材を刳り抜いたものであるが、後に東北地方に多く見られるムダマハギ構造(単材から複数の船底材を刳り抜いてはぎ合わせる工法)に進化し、最終的にははぎ合わせた板材に棚を追加し船梁で補強する棚板造りへと進化した。前者の準構造船は室町時代頃までの主流であったが、後者の構造船も平安時代後期にはすでに琵琶湖では使用されていたことが判明している[2]

推進方法は、長櫂・車櫂(オール)、、練櫂・小櫂(パドル)、棹の5種類が用いられている。

帆の構造に関しては、古代と中世では異なり、6世紀珍敷塚古墳福岡県吉井町)に描かれた船では、両舷に棒が立てられ、その間に帆が張られており、このタイプはミクロネシアの船や近世期のアイヌの船にも見られる(後述書 p.97)。これが中世の絵巻物では、船体のほぼ中央に帆柱が立てられ、四角い帆が張られた(後述書 p.97)。この四角い帆は、東アジアでは日本以外では使われておらず、起源は不明であるが、古代と中世の間で、帆装法の技術の断絶が確認される[3]

中世以降、帆は一枚帆という形式が多く、帆形は四角帆が主流であった。しかし打瀬船のように2本あるいは3本マストの和船も存在していたし、帆の下端を絞り込むことで逆三角帆とすることもあった。帆に使用されたのは江戸時代までは基本的に(ムシロ)であったが(『和漢三才図会』の「帆」にも、「昔は藁筵を用いたが、近年は木綿織物を用いる」と記述がある)、江戸時代に工楽松右衛門が通称「松右衛門帆」と呼ばれる帆布を開発し、全国に普及した。

日本においてはオールは長櫂や車櫂と呼ばれ、長櫂は瀬戸内海を中心に、車櫂は東北から北海道にかけて使用された。艪は東北から種子島までの範囲で用いられ、奄美群島以南では小櫂(パドル)が用いられた。

江戸幕府が船に竜骨やマストや帆を二本以上用いる事を禁じたという説があるが、特に史料的な裏付けはない。これらはあくまで利便性・経済的な理由を主としている[4]
沖縄・北海道の船

琉球王国の領域の住民や、アイヌも和船と似た船を使っていた。


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