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杉原紙千代紙和紙を用いた折鶴折鶴(一辺75mmの和紙の折り紙)
和紙(わし/わがみ)は、日本古来の紙。欧米から伝わった洋紙(西洋紙)に対して、日本古来の以下の原料などで漉かれた紙を指す[1]。日本紙と同義。 洋紙が伝わり普及した明治時代、日本古来の紙が「和紙」として認識されるようになった[1]。一般的な「和紙」の特長は「洋紙に比べて格段に繊維が長いため、薄くとも強靭で寿命が比較的長く、独特の風合いを持つ」と言われている(但し、種類や用途によって、一概には断言できない)。木材パルプ原料から生産される「洋紙」と比較すると、原料が限られ生産性も低いために価格は高い。伝統的な漉き方では、独特な流し漉き技術を用いるが、「現代の和紙」(「和紙」風の風合いを持つ紙)は需要の多い障子紙や半紙を中心に、伝統的でない原料が使われる和紙や、大量生産が可能な機械漉きの紙も多いが、目視だけでは区別が難しい場合も多い。伝統的な製法と異なる原料を用いた和紙や、機械漉きの和紙は歴史的に耐久性や経年劣化に対する検証が不十分であり、シミの発生や繊維の脆化などの欠点を持つ物も多い。そのため日本古来の原料と製法で作られた紙という意味での「和紙」との混用を認めない意見もある。 「和紙」は世界中の文化財の修復にも使われる一方、「1000年以上」とも言われる優れた保存性と、強靱で柔らかな特性を期待して、日本画用紙、木版画用紙等々、独特の用途を確立しつつある。また、日本の紙幣の素材として用いられる。一部工芸品の材料、家具の部材、紙塩などにも使用され、「和紙」と呼ばれる以前の江戸時代には日本中で大量に生産され、建具の他に着物や寝具にも使用されていた。近年では、天然・自然の素材として、インテリア(照明など)[1]や、卒業証書や様々な習い事のお免状用紙などにも使用されることもある。 「和紙」の産地は全国に点在しているが、近年では日本古来の伝統的な製法による紙は、原料を含めて生産者が減少している(小規模な家内工業的施設が殆どのため)。安部榮四郎記念館(島根県松江市)の調査によると、1941年に1万3000以上あった和紙生産者は、2016年には機械漉きを含めて207に減っている[1]。和紙原料である楮の生産量も、日本特産農産物協会によると、3170トン(1965年)から36トン(2019年)へ激減した[1]。 製紙技術が伝来する前に、紙自体が書物として伝来したと推測されるが、その時期は分かっていない[3]。 『古事記』によれば、応神天皇16年(285年)に、朝鮮半島から百済人の王仁が、中国の書物である『論語』10巻と『千字文』1巻を将来したのが、日本における書物の初伝とされるが、『千字文』の作者は、応神天皇より100年後の人物であるので、考証学上誤りである。考証学的には、4世紀から5世紀には伝来したものと推定される。 日本の紙作りの起源には複数の説がある[4]。大別すると、日本で自然に紙漉きが発生したとする説と、渡来人による伝来説になる[4]。いずれの場合でも、時期に関しても諸説あり、早いものでは3?4世紀とするものからある[4]。 5世紀に入ると、日本で紙作りが始まったきっかけになっただろうと考えられる有力な記録が登場する[5]。『日本書紀』に拠れば、履中天皇4年(403年)に初めて国史(ふみひと)を配置して言事(ことわざ)によって様々な事柄の記録を始める、とあり、公権力によって紙による記録が始まり、紙作りの必要性が興ったと推測されている[5]。なお、この年代に関しては『古事記』とは数十年の齟齬がある[注 1][5]。 6世紀初頭には、福井県今立町(2005年に合併により越前市の一部)にて、紙漉きが始まったとする伝承がある[5][6]。 6世紀半ばになると、欽明天皇元年(540年)が渡来人である秦人・漢人に戸籍の編集をさせたという記録がある[5]。この時に使われた紙は郷戸が作成したとされており、秦人が日本で紙を作ったと推測されている[5]。一方、これと相前後して宣化天皇3年(538年)[注 2]に仏教が伝来し、この際に百済の製紙技術が持ち込まれたと考えられている[5]。 製紙技術の歴史は、中国後漢時代の蔡倫の改良から始まる。中国から日本への製紙技術の伝来は、推古天皇18年(610年)、高句麗を経由してされたとされる。公式記録として確認できる記述は『日本書紀』にある。また、継体天皇7年(513年)、五経博士が百済から渡来し、「漢字」「仏教」が普及し始め、写経が仏教普及の大きな役割を果たしていたことから、この頃既に紙漉がいたのではないかと推測される。 『日本書紀』の記述は、「(推古天皇)十八年春三月 高麗王貢上僧 曇徴 法定 曇徴知五經 且能作彩色及紙墨 并造碾磑 蓋造碾磑 始于是時歟」、高句麗の王、僧曇徴、法定を貢上る。曇徴は五経を知れり。また彩色及び紙墨を能く作り、併せてみず臼(水車の動力を利用した挽き臼)を造るとある。飛鳥時代の推古天皇18年(610年)に高句麗の僧侶曇徴は紙漉きと墨を上手に作る事が出来、横型水車動力による特殊な石臼も造れ、石臼製造のみ日本初であると特記されている。なお、この石臼の用途については、色材(顔料)の製造用、寺院による豆乳製造用、製紙原料叩解・解繊用と諸説あり定まっていない。年代のわかるものとして現存する最古の和紙は、正倉院に残る美濃国、筑前国、豊前国の戸籍用紙である。また、最古の写経である西本願寺蔵の『諸仏要集教』は、立派な写経料紙に書かれており、西晋元康6年3月18日(296年5月7日)の銘記がある。
麻
楮(こうぞ)
三椏(みつまた)
雁皮(がんぴ)
檀(まゆみ)
苦参(くじん)
フキ[2]
マニラ麻
特徴
和紙の歴史
書物としての紙の伝来
日本での紙づくりの起源
紙づくりの伝来
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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