和算
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和算(わさん)は、中国の伝統数学の系譜を引く日本の算術体系。『和算』という語は、明治期に、当時流入した『洋算』(西洋数学)と対比するために作られ、主に江戸時代数学を指すが、西洋数学導入以前の数学全体を指すこともある。特に関孝和以降、高度に発展した。
和算の歴史
江戸時代より前「算道」も参照

和算は中国の数学から多大な影響を受けている。中国では『九章算術』と呼ばれる数学書が漢代には登場し、そのなかで面積計算法や比例反比例ピタゴラスの定理などを紹介している。7世紀以降、遣隋使遣唐使の派遣などにより、中国の文化が日本に次々と流入するようになる。

中国の律令制を元に作られた大宝律令では、算博士算師と呼ばれる官職が定められていた。算博士は算師の育成にあたるとともに、『九章算術』を始めとした中国の算書の知識が要求された(算道)。『万葉集』には次のような歌がみられる。

若草乃 新手枕乎 巻始而 夜哉将間 二八十一不在國 (わかくさの にひたまくらを まきそめて よをやへだてる にくくあらなくに 巻十一 2542番)

「くく」という読みに「八十一」という漢字が当てられており、すでに九九が日本で知られていたことがわかる。

中世から安土桃山時代おいて、どのような数学が行われたかはよく分かっていない。算道は官司請負制に基いて世襲によって各々の氏族に伝えられるようになり、一種の秘伝のように扱われ、閉鎖的な学術となっていたためである。

禅寺では儒教の書物と並んで『九章算術』が僧侶の教育に用いられた[注釈 1]

臨済宗中巌円月が数学を好んで自らも『??算法』という数学書を書いたと伝えられているが、散逸してしまい現存していない[1]。しかし、中巌円月の『治暦篇』(『中正子外篇』第6篇)には、1太陽年の平均日数と、太陰太陽暦メトン周期における1年の平均月数から、1朔望月の平均日数を求める以下のような繁分数計算が言及されており、中世日本の分数理解を知る上で貴重である[2]

365 1 4 ÷ 12 7 19 = ( 1461 4 × 19 235 = 27759 940 = ) 29 499 940 . {\displaystyle 365{\frac {1}{4}}\div 12{\frac {7}{19}}=\left({\frac {1461}{4}}\times {\frac {19}{235}}={\frac {27759}{940}}=\right)29{\frac {499}{940}}.}

もっとも、途中の分数同士の除算に関する計算過程がなく、計算結果のみが突然与えられるため、岡山茂彦と田村三郎は、中巌自身は計算法を余り理解せず、計算結果を中国の数学書から書き写した可能性もあるのではないかと指摘している[2]

『九章算術』などは散逸してしまったようだが、土木建築財務の計算などにある程度の数学が必要だったのは確かである。また、の学習には数学的知識が必要であり、その中には儒教の経典「五経」の1つとしてみなされていた『周易』の解釈も含まれていたとする指摘もある[1]

江戸時代の古老が「太閤検地の頃は算木を使った」と回想しており、また『塵劫記』の開平計算が算木による方法に近いことから、江戸時代直前まで算木が優勢であったと思われる。そろばんの導入時期は不明であるが、毛利重能の『割算書』(1622年(元和8年))では珠算が解説されている。近年、和算の成立に、宣教師が伝えたヨーロッパ数学の影響が有るとする見解が有るが[3]、その当否は、今後の数学史研究の課題である。
江戸時代

江戸時代に日本の数学は大いに発展した。
初期の和算『改算塵劫記』。国立科学博物館の展示。

このきっかけになったのが1627年(寛永4年)、京都の吉田光由によって書かれた『塵劫記』である。明代の算術書『算法統宗(中国語版)』を模範としたもので、そろばんの使用法や測量法といった実用数学に加え、継子立てねずみ算といった数学遊戯が紹介されている。

『塵劫記』はベストセラーとなり、初等数学の標準的教科書として江戸時代を通じて用いられた。また、本書を模倣したり、書名を『○○塵劫記』としたものも多く出版された。

『塵劫記』は初等的な教科書だったが、ある版には巻末に他の数学者への挑戦として、答えをつけない問題(遺題)を出した。これ以降、先に出された遺題を解き新たな遺題を出すという連鎖(遺題継承)が始まり、和算で扱われる問題は急速に実用の必要を超え、技巧化・複雑化した。
和算の中興関孝和著「括要算法」の、ベルヌーイ数二項係数について書かれた頁

遺題継承が盛んになるにつれ、しばしば、それまでの初等算術的な手法では手に負えない問題が現れるようになった。

沢口一之はその著『古今算法記』で、当時注目されていた朝の朱世傑の著『算学啓蒙』その中の天元術未知数が1個の代数方程式とその数値的解法)を困難な遺題の解決に用いて、その術の威力をしめした。

また彼は同書に遺題として、天元術では扱えない複数の未知数を設ける「代数方程式」(いわゆる高次多元連立方程式)を必要とする問題を提出した。これに応えて、江戸の関孝和や京都の田中由真(たなか よしざね)らが相次いで傍書法・演段術、つまり文字式による筆算の計算法と、それによって編み出された高次多元連立方程式の解決法を創出した。

日本の数学史に一石を投じたのが、関孝和である。彼は天元術・演段法を発展させて「点竄術」を創始した。これは傍書法によって問題の条件を文字に写して、それによって理論を整理することで術(答えを得るための計算法)を得る、いわゆる代数学である。

これによっての算法や複雑な条件を持つ問題など難しい理論をあつかう算法が様々に解けるようになった。この術は後代「千変万化」の術とも称えられ、あるいはこれが日本数学の全体ともいえる。すなわち、日本数学の基礎は「点竄術」によって初めて立ち、この術のおかげで数学の問題の難度や理論性がより高度に独特に発展していくこととなった。江戸後期の坂部広胖は「どんな難解な術でも点竄の理から漏れることはない。」といっている。

関孝和はまたこの他

約術 - 数値の簡単化の方法

剰一・?一術、翦管術 - 剰余方程式問題

招差術 - 方程式の係数の決定法

?術 - 数列問題

角術 - 正多角形の各数値の関係式問題

適尽法 - 解無し(実数解無し)の方程式の最適化

円理 - 円や曲線の諸問題

交式斜乗法 - 行列式展開

方陣・円? - 魔方陣の理論

など、多岐にわたる数学の分野において、研究あるいは新たな発明をしている。

江戸初期には数学の中心は京阪地方だったが、この頃から江戸の関孝和の学統、関流が圧倒的な主流派になってゆく(この為か、京阪地方の和算家の実態があまり今日に伝わっていない)。このように遺題継承の結果、関孝和のような独創的な数学者もあらわれて、日本の数学は高度な代数・整数方程式論・解析学幾何学が実用の範囲を超えて発達していった。
関流の勃興関孝和は、日本の算術の発展に大いに寄与した一人である。

和算における解析学に関連した研究を「円理」といい、関孝和の登場以降大いに発達した。

円理という名は、円周率や円積率、体積表面積が主な問題となったことによる。関孝和は円に接する正多角形の辺の長さを用い、円周率を11桁まで得ている。

関の弟子である建部賢弘は同様の手法をリチャードソンの補外と組み合わせて、42桁まで正しい値を計算している。彼はさらに進んで、綴術いわゆる無限級数とその導出法を編み出し、それにより関孝和の成しえなかった弧背の長さなど円理における各種計算法を導き出し得た。

建部賢弘は、その著『綴術算経』では(arcsin x)2の冪級数展開を世界で初めて計算している。また、同年に大阪の鎌田俊清もarcsin(x), sin(x)の冪級数展開を求めた。

建部賢弘の弟子中根元圭は天文学の洋学による知識の必要性を説いて、当時キリスト教排除においてなされた洋書の輸入禁制を緩めることを、その主人である将軍徳川吉宗に進言したといわれ、ついに実行されるに至った。それによって、西洋の天文暦算を解いた朝の梅文鼎の『暦算全書』や『数理精蘊』などの書が伝わり、暦学者や算学者の目にとまった。


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