和田豊
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この項目では、プロ野球選手・指導者について説明しています。その他の用法については「和田豊 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

和田 豊阪神タイガース 二軍監督 #86
阪神タイガース一軍監督時代
(2012年8月17日 明治神宮野球場
基本情報
国籍 日本
出身地千葉県松戸市
生年月日 (1962-09-02) 1962年9月2日(61歳)
身長
体重174 cm
72 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション二塁手遊撃手三塁手
プロ入り1984年 ドラフト3位
初出場1985年7月11日
最終出場2001年10月1日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


千葉県立我孫子高等学校

日本大学

阪神タイガース (1985 - 2001)

監督・コーチ歴


阪神タイガース (2001 - 2015, 2023 - )

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

オリンピック
男子 野球
1984 ロサンゼルス野球

和田 豊(わだ ゆたか、1962年9月2日 - )は、千葉県松戸市出身の元プロ野球選手内野手、右投右打)、プロ野球監督

阪神タイガース監督退任後は、阪神球団オーナー付シニアアドバイザー[1]を経て、2017年11月1日から球団本部付テクニカルアドバイザー(TA)を務めた[2]2023年からは二軍監督を務める。
概要

1985年に阪神へ入団してから、阪神一筋フランチャイズ・プレイヤーとして他球団へ移籍することなく2001年まで現役生活を送った。

現役引退後は、一軍・二軍でのコーチを経て、2012年から2015年まで一軍の監督を歴任。阪神において、選手・コーチ・監督時代を通じて、31シーズン連続で現場で従事した人物は、和田が初めてである。

ロサンゼルスオリンピック野球の金メダリスト。
経歴
プロ入り前

松戸市立常盤平第一小学校、松戸市立常盤平中学校から我孫子高校に進学し、1978年、1年生の時に三塁手として夏の甲子園に出場した。2回戦(初戦)で石嶺和彦のいた豊見城高に延長10回サヨナラ負けを喫する。1年上級に板沢峰生仲野和男菅原悦郎[注 1]がいる。

高校卒業後は日本大学へ進学した。当時の日大は東都大学野球リーグ二部に低迷していたが、1981年秋季二部リーグで優勝し、入替戦で国士舘大を下し、一部に昇格した。一部優勝には届かなかったが、1983年春季リーグでは、1年下のエース石井宏の好投もあって駒大に次ぐ2位(同勝点、勝率差)となり、自身も首位打者を獲得した。東都一部リーグ通算78試合出場、288打数94安打打率.326、4本塁打、22打点。ベストナイン(遊撃手)2回。

1983年から2年連続で日米大学野球選手権大会日本代表に選出されたほか、1984年ロサンゼルスオリンピック野球日本代表として出場し、金メダルを獲得した。
現役時代

1984年、阪神タイガースにドラフト3位で指名され入団。同年限りで引退した藤田平の後継者として期待され、藤田がつけていた背番号6を与えられた。

1985年山脇光治と入れ替わる形で一軍に昇格し、プロ初打席は四球だった。新人選手ながら39試合に出場し、チーム初の日本一達成に控え内野手として貢献した。

1988年に監督に就任した村山実から、大野久中野佐資と共に“阪神タイガース少年隊”と命名される。開幕から平田勝男に代わり遊撃手に抜擢され、二番打者として活躍。当時の日本記録を更新する56犠打を記録し、規定打席(14位、打率.279)にも到達した。1988年にはスイッチヒッターにも挑戦したが、現役生活は右打者に徹した。

1989年にも最多犠打を記録し、小技と堅実な守備でチームの中心選手となった。

1990年には、打率.304(リーグ5位)と自身初の3割越えを記録。シーズン本塁打8本は生涯最高の本数であり、この年最後の本塁打となる8号はランニングホームランであった。長打率も生涯唯一4割を超えたが、同年の三振59個が生涯ワーストの数字ともなった。

レギュラー獲得当初は二番打者としての起用が多かったが、勝負強く三振の少ない打撃を買われて徐々に一番に定着し、低迷する阪神をチームリーダーとして引っ張った。

1992年からは岡田彰布に代わって二塁手に回り、3年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。特に1992年はルーキーイヤー以来となるチームの優勝争いに貢献し、ベストナインにも選ばれた。芸術的な流し打ちや、追い込まれてからの勝負強さを武器に「安打製造機」として活躍し、通算1,739安打を記録した。

1993年にリーグ最多安打(当時はタイトルではない)となるなど、巧打の内野手として活躍した。一方、極端に長打の少ない打者として知られ、1991年から1993年まで、規定打席に達していながら3年連続で0本塁打であった。1994年5月25日の巨人8回戦(甲子園)で打った2点本塁打は1,930打席ぶりに出たもので、走者を置いての本塁打はプロ入り3,673打席目で初めてだった。

1994年は打率.318(リーグ4位)と、自己最高の成績を残し首位打者争いにも加わる。シーズン終了後の契約更改で阪神の生え抜き選手としては初の1億円プレーヤーとなる(球団初の1億円プレーヤーは石嶺和彦)。この年の打順は前半戦は一番打者、後半戦はロブ・ディアーの不振に伴い三番打者を任されていた。この年のシーズン147本単打は、1988年に新井宏昌が記録した144本を上回ったが、オリックスのイチローが151本を記録した為、このシーズン終了時点ではセ・リーグ新記録と日本プロ野球歴代2位(右打者としては1位)となった[3](セ・リーグ記録としては2003年赤星憲広が並び、2004年荒木雅博が更新)。

1995年は前年最終戦で自打球を足に当て骨折した影響から不振に陥り、関川浩一に一番打者を譲り二番を打つことが多かった。

1996年は開幕から七番打者としてスタートするが、5月下旬には一番に戻り成績も復調。チーム事情により三塁手としての出場が多かった。11月に行われた日米野球にも出場。特に甲子園での試合では野茂英雄から三塁打を打ち5打点を挙げる活躍をみせた。


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