和田英作
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和田 英作

誕生日1874年12月23日
出生地鹿児島県肝属郡垂水村(現・垂水市
死没年 (1959-01-03) 1959年1月3日(84歳没)
死没地静岡県清水市
国籍 日本
芸術分野洋画
教育天真道場
東京美術学校
受賞文化勲章(1943年)
文化功労者(1951年)
勲一等瑞宝章(1959年)
会員選出組織東京美術学校校長(1932年-1936年)
影響を受けた
芸術家黒田清輝
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和田 英作(わだ えいさく、1874年12月23日 - 1959年1月3日)は、鹿児島県出身の洋画家教育者東京美術学校校長(1932年-1936年)。文化勲章受章者、文化功労者。父は和田秀豊、弟は和田秀穂
経歴
幼年期

1874年12月23日、鹿児島県肝属郡垂水村(現・垂水市)に生まれた[1]。父親は牧師の和田秀豊、母親は川上トヨ[2]。鹿児島生まれとするのが定説だが、1997年にフェルケール博物館で開催された「日本近代洋画の重鎮・和田英作展」では、東京生まれだとする新説が提示されている[1]。和田秀豊はトヨの父親川上幸彦と親しかった[3]。英作は三男四女の長男である[3]

3歳4か月だった1878年3月に家族で上京し、東京府麻布区の麻布仲ノ町に住んだ[2]。父親は海軍兵学校で英語の教員を務める[4]。5歳だった1879年にはスコットランド一致長老教会ヒュー・ワデルから小児洗礼を受けた[5]。1880年には麻布学校初等科に入学、1883年には麻布学校中等科に進学したが、1884年には東京府立芝区鞆絵小学校に転校し、1887年に鞆絵小学校高等科を卒業した[2]
青年期和田が師事した黒田清輝

1887年には白金明治学院予科に入学し、上杉熊松に洋画の基礎を学んだ[2][4]。明治学院の同級には三宅克己、先輩には島崎藤村がいた[2]内国勧業博覧会原田直次郎曽山幸彦[1]の絵を見たことで本格的に洋画を学ぶことを決め、1891年には明治学院を中退[2]。上杉の紹介で曽山の洋画塾に入塾、同門には岡田三郎助中沢弘光、三宅、矢崎千代二がいる[4]。1892年には曽山が死去したため、原田直次郎の洋画塾・鍾美館に移り、1893年にはその傍らで久保田米僊に日本画を学んだ[2][4]

1894年には原田が病気療養に入ったため、同年秋には外光派黒田清輝が開設したばかりの天真道場[2]に移った[3][6]。1894年には黒田が日清戦争に従軍しているため、実際には久米桂一郎の指導を受けている[7]。1895年には第4回内国勧業博覧会に「海辺の早春」を出品して2等賞を得ており[8]、この作品は久米の作風に近い印象派的な風景画の要素を持っている[7]。1896年には白馬会の結成に参加[2][4]卒業制作の『渡頭の夕暮』1897年, 東京藝術大学大学美術館

東京美術学校(現・東京芸術大学)に西洋画科が開設されると、黒田の西洋画科教授就任にともなって、藤島武二岡田三郎助とともに助教授に就任[7]。これはヨーロッパ留学を見据えた一時的な人事であり、実際には生徒として黒田の指導を受けた[9]。しかし助教授という立場で指導を受けることに気まずさを感じ、1897年2月には助教授を辞した[9]

岡倉天心校長の取り計らいによって、生徒として西洋画科選科第4年級に編入学[3]。すぐに卒業制作の創作を開始し、初の大作でありその後も代表作となる『渡頭の夕暮』を描きあげた[9]。この作品は多摩川の矢口の渡しの一場面を描いたものであり[10]、黒田の『昔語り』や[3]フランス人風景画家のジャン=シャルル・カザンの影響が指摘される[11]。翌1898年9月に自然主義作家の田山花袋が『新小説』に発表した『渡頭』は、和田の『渡頭の夕暮』から着想を得た作品である[9]

4年生は和田ただひとりであり、1897年7月には西洋画科初の卒業生となっている[2][4][10]。10月には無給で西洋画科の教場助手となり[2][4]、再び黒田らの指導を受けた[9]。1896年から1897年には芝区愛宕町に住んだ[5]
ヨーロッパ留学パリのアカデミー・コラロッシ


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