和田繁明
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和田 繁明(わだ しげあき、1934年1月3日 - )は、日本の実業家。レストラン西武(現:西洋フード・コンパスグループ)、西武百貨店そごうの経営再建を手掛け、西武百貨店とそごうの持株会社であるミレニアムリテイリングセブン&アイ・ホールディングスとの経営統合に導いた。目次

1 人物・来歴

2 経歴

3 著書

4 脚注

4.1 注

4.2 出典


5 参考文献

人物・来歴

東京本郷の商家に生まれる[1]早稲田大学高等学院早稲田大学政治経済学部を卒業[2]。大学在学中は早大弁論部に所属、卒業後の就職先としてメディア界入りを志向、在京放送局のアナウンサー試験を受験するも全敗となる。次に新聞社を狙うもこれまた不採用となる。そこで方針を変え学生時代のアルバイト経験を活かそうと百貨店入りを目指し松坂屋を受験。役員面接まで進むも不採用となる。仕方なく最後の望みを託し西武百貨店を受験する[1]。面接まで進んだ所、面接陣の中央に2年前店長に就任した堤清二が鎮座していた。仕事に関した質問が済んだ後、趣味の話となり和田は好きな花づくりに関し触れ、土いじりをしていると心がやすまるとの趣旨を述べた。和田はこの際のやり取りが堤の琴線に触れ採用につながったと理解している[3]

1957年学卒2期生として西武百貨店に入社。以来、栄進を重ね高品質既製紳士服「テッドラピドス」の導入を成功させた功績で35歳で取締役に抜擢され[4]、40歳で常務に就任。売場を店員に任せるショップマスター制度を考案[5]。社内外で将来の社長候補として嘱望される。しかし、1983年経営不振に陥っていたレストラン西武(現:西洋フード・コンパスグループ)社長への出向辞令が発せられる。和田はこの人事を左遷と捉えショックを受け、堤に辞表を出す結論に至った。だが周りの人々に諫められ、冷静さを取り戻し辞令を甘受することとした[2]。なお堤は和田の人事に対する左遷との見方を否定している[4]

同年6月レストラン西武社長に着任する。当時の同社は40に及ぶ業態を抱え、また和田が社長に就任するまでの20年間に11人がかわるがわる社長に就任しその度に経営方針も変わるため、社内は閉塞感に覆われ社員の士気の低下は著しいものがあった[6]。そうした中、和田は着任早々社員全員を集め「俺はこの会社、社員と、運命をともにする。ここに骨を埋めるつもりでやってきた。またどうせ、すぐ代わるだろうなどと思っていたら大間違いだからな」と言い放ち[7]、経営改革に着手する。和田はことあるごとに社員を集め自らの方針を説いた。さらに直接役員や社員にも手紙を書いたほか、社内報でも自説を唱え意識改革を求め続けた。そして、日本におけるチェーンストア理論の第一人者とされていた日本リテイリングセンター社長であった渥美俊一の下に社員をトレーニーとして派遣し、チェーンストア・オペレーションとチェーンストアマネジメントを学ばせた[1]。さらに中期経営計画で掲げた多様な業態を開発しチェーン展開する方針に基づき、ファミリーレストラン・CASAや新コンセプトのダイニングバー「オールドニュー」などの出店を開始。10年ほどにチェーン全体で店舗総数は1000店を超え、1989年には社名を西洋フードシステムズに改めた[1]

1992年6月、バブル崩壊が顕著となるなか西武百貨店医療機器事業部における架空取引事件が発覚。社員2名を含む計5名が逮捕される事態となる。社内は騒然とし、百貨店の信用は大きく傷つき経営危機はピークに達した[8]。同7月には百貨店立て直しを堤から要請され代表取締役会長として復帰。同年10月には山中松屋 東武百貨店社長を歴任)をして「百貨店業界はもちろんのこと、産業界を震撼させた」と評した和田の筆による社内報かたばみ特別号である『西武百貨店白書』が刊行される[9][注 1]。その内容は一貫して経営陣批判が綴られた檄文であった。

和田は百貨店改革にあたって社員の徹底した意識改革を求め、同年12月には一連の「お約束広告」の第一弾となる「まず、4月の新学期までに、商品の包み方の一番じょうずな百貨店になります」の文言が記載されたポスターが店頭等に張り出された[10]。さらに人員の整理や不採算店の閉鎖に加えて、1993年4月には全役員の降格人事を断行。自身は社長となり、社長であった水野誠一は副社長に降格した。また大ナタを振ってマネジメント改革も推し進め、チェーンオペレーションを百貨店に導入しようとした[1]が、各店舗独自だった包装紙等を共通化するにとどまった。そして1995年3月には既存店舗の業態革新の端緒として[11]食品売り場を廃止した上ファッション専門大店への転換を図るべく有楽町西武の改装に着手。クラブ・オン ポイントシステムを先行導入しバックシステムに工夫を凝らした同店は改装から2年後、一時的に単年度黒字に転換した[12][注 2]。不採算店舗の閉鎖を進めていくうち96年2月期には何とか4期振りに黒字に転換。その後4期連続で増収増益を達成させ西武百貨店の経営の復調を印象づけた[13]。このほか堤が「時代精神の根拠地」宣言の下、開館した西武美術館の後身となるセゾン美術館の閉館を決断。1999年同館は閉館した。和田は閉館にあたって新聞記者の取材に「美術館の役割は終わったんじゃないですか。僕はそう思います。」と述べた[4][注 3]。取材では他に「あなたはイエスマンばかり重用していると言われているが」との新聞記者の問いかけに「自分をよく理解してくれる人間を重用しているだけだ。そういう人をイエスマンと呼んでもらっては困る」と返し、早大弁論部出身ならではの"詭弁"を展開することもしばしばであった。

有楽町西武を皮切りに米国デザイン会社キャリソン・アーキテクチャ社のプランニングのもと渋谷店、次いで静岡店と進めた店舗改装も、店内通路をあまりに広くとるキャリソンの手法が地方店では集客につながらず、また和田の提唱したチェーンオペレーションという名の商品部主導による画一的マーチャンダイジングの失敗とも相俟って改装後一年を待たずに売上高が前年割れを起こす店舗が続出した。改装したもの数年で閉鎖という閉店ドミノが生じる一因ともなった。後述する "再生の象徴" そごう心斎橋本店の開店後わずか4年で閉店と、いうケースが和田体制を象徴している。

1996年3月、セゾングループ筆頭代表幹事で西友会長であった高丘季昭が急逝し、グループ全体の舵取りも和田が担う必要に迫られた[注 4]。そこで和田は百貨店会長に退き、グループ内の西洋環境開発(西環)と東京シティファイナンス(TCF)[注 5]の懸案処理にあたる[13]。和田は西環の処理にあたって同社の清算を主張。また西武百貨店は西環の筆頭株主で出資はしているものの、経営には一切関与していないとして銀行団の貸し手責任を追及し、メインバンク第一勧業銀行(一勧)と激しく対立した[2]。この和田の主張は、放漫経営を見過ごした堤への批判を伴っていたとされ、一勧から和田外しを要求された堤は、1998年11月、西環の処理にあたっては銀行団に迷惑をかけないよう努力するとの趣旨がしたためられたのちに「堤ノート」と呼ばれる誓約書を提出[2]。さらに堤は1999年3月、最低1401億円をセゾングループで負担する。と約した確認書をグループ各社の取締役会決議を経ぬまま銀行団に差し入れていたことが明らかとなる[2]。これ以後1401億円の負担を求める銀行団、なかでも一勧頭取であった杉田力之と、和田および百貨店の間は抜き差しならない状況となった。これによって和田は同年5月不本意ながら会長を辞任。公式発表では65歳の定年内規に則り退任したと発表された。また同時に堤も西友の取締役相談役を辞任。グループ会社の役職からすべて降り身を引いた[2]。その後西環の処理策は百貨店首脳と一勧首脳との間で継続され、2000年7月同社は、東京地裁に特別清算を申請。負債総額は5538億円にのぼり、西武百貨店は500億円の損失負担を強いられたものの、和田の主張が受け入れられた形での決着を見た[2]

同年4月、大型店舗の展開によって地域一番店をめざし、出店攻勢を続けていたそごうに君臨していた水島廣雄が千葉そごうを始めグループ企業の株をすべてメインバンクであった日本興業銀行(興銀)に提出し会長を辞任した[1]


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