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をお願いします。(2019年4月)和田 秀穂
旅順要港部司令官時代
生誕1886年1月2日
日本 鹿児島県
死没 (1972-04-03) 1972年4月3日(86歳没)
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴1907年 - 1937年
最終階級 海軍中将
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和田 秀穂(わだ ひでほ、1886年(明治19年)1月2日 - 1972年(昭和47年)4月3日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 鹿児島県出身。日本基督教会の牧師・和田秀豊の二男として生まれる。海城中学校を経て、1906年11月、海軍兵学校(34期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。海軍大学校乙種、同専修科を卒業し、「高崎丸」分隊長となる。「松江」航海長などを経て、「若宮丸」乗組として第一次世界大戦におけるドイツとの戦闘に従軍。イギリス・フランス出張、イタリア出張、「若宮」兼横須賀海軍航空隊教官などを経て、1919年12月、海軍大学校(甲種17期)を卒業した。 以後、横須賀鎮守府付(軍務局航空部)、海軍省軍務局第3課局員、霞ヶ浦航空隊副長、佐世保航空隊司令、横須賀航空隊司令、「鳳翔」・「赤城」の各艦長、横須賀鎮守府付、海軍航空廠飛行機部長などを歴任し、1932年12月、海軍少将に進級。霞ヶ浦航空隊司令、第一航空戦隊司令官、旅順要港部司令官などを歴任し、1936年12月、海軍中将に昇進。軍令部出仕を経て1937年12月に待命となり予備役に編入された。著書に『海軍航空史話』がある。 1914年、海軍航空隊に所属していた和田は、フランス製モーリス・ファルマン水上機の操縦士として第一次世界大戦に参加している。搭乗したのは輸送船を改造した水上機母艦「若宮丸」で、70馬力(2人乗り)と100馬力(3人乗り)のファルマン機を各1機、解体した70馬力2機の計4機を搭載していた。 若宮は1914年8月23日に横浜を出港し、9月1日に膠州湾外に到着した。悪天候のため待機を余儀なくされ、ようやく5日に100馬力で3人乗りのファルマン機の操縦士として初出撃を行った。湾内には巡洋艦「カイゼリン・エリザベート
経歴
青島爆撃大日本帝国海軍の水上機母艦「若宮」所属の2機のモーリス・ファルマン水上機(青島、1914年)
この爆撃は、機体に紐で吊った爆弾をその紐を切って落とす方法で行った。敵機に遭遇した場合は拳銃で撃墜するつもりであったという。一連の作戦行動は日本初の航空戦であった。
家族親族
父 和田秀豊(牧師)
兄 和田英作(画家)
参考文献
秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
『世界の戦史 9 第一次世界大戦』人物往来社、1967年。
水交会編『回想の日本海軍』原書房、1985年。
伊藤正徳『大海軍を想う』文藝春秋新社、1956年。
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