凡例和田 惟政
太平記英勇伝十六:和田伊賀守惟政(落合芳幾作)
時代戦国時代
生誕享禄3年(1530年)?[1]
死没元亀2年8月28日(1571年9月17日)
別名弾正忠、紀伊入道
墓所大阪府高槻市の伊勢寺
官位弾正忠、伊賀守、紀伊守
幕府室町幕府 摂津半国守護
主君六角氏、足利義輝、義昭、織田信長
氏族近江和田氏
父母和田宗立
和田 惟政(わだ これまさ)は、戦国時代の武将。室町幕府末期の幕臣。父は和田宗立(惟助)。 和田氏は近江国甲賀郡和田村(現在の滋賀県甲賀市甲賀町和田)の有力豪族で、甲賀五十三家のうち特に有力な甲賀二十一家[2]に数えられ、特に山南七家[3]とも称される家柄で、油日神社と深く関係していた。初めは六角氏の被官であったが、惟政の父の代に室町幕府13代将軍・足利義輝の幕臣として仕える。 天文22年(1553年)、三好長慶に追われた足利義輝が六角氏を頼って近江に逃れており、その時期に和田氏と足利将軍家の関係が生じて幕府の奉公衆化したと推定されている[4]。 永禄8年(1565年)、義輝が家臣の三好三人衆らによって殺害される(永禄の変)。当時、和田家の家伝では、当時の惟政は義輝の不興を買って和田で謹慎を命じられていたため事件に巻き込まれずに済んだという。事件を知った惟政は興福寺に軟禁されていた義輝の弟・覚慶(足利義昭)を細川藤孝、三淵藤英、一色藤長、仁木義政
生涯
以後、足利幕臣として京都周辺の外交・政治に大きく関与しながら、織田氏家臣としても信長の政治や合戦に関わるという義昭と信長の橋渡し的役割を務めている。
永禄12年(1569年)10月、信長に援軍を要請した播磨国の赤松氏の援軍として、備前国の浦上氏攻めに参加している。
その後、惟政は所用で美濃国にいる信長の許へ向かう途中、信長から蟄居を命じられた報を受け取る。ルイス・フロイスによれば他に「引見の不許可」「惟政が近江に持っていた城の破壊」「収入のうち2万クルザードの没収」という厳しい処分だった。フロイスはこれを朝山日乗が信長に讒言したためと記しているが、同時期に信長と足利義昭の関係が悪化している事が大きな原因と推測されている(惟政は幕臣)。惟政はこれに剃髪して抗議した。
元亀元年(1570年)、惟政は京で越前攻めに向かおうとしている信長に謁見すると、信長はその地位を回復した。フロイスによれば3万クルザードの俸禄を加増されるなど、非常に厚遇されたという。6月28日の姉川の戦いには織田氏方として参加したようである[5]。
11月、多方面に敵を抱える形となった信長は将軍・義昭の権威を利用して六角氏と和睦をしているが、この際に、三雲成持・三雲定持宛てに惟政が宛てた書状(福田寺文書)があり、かつて六角氏の影響下で同じ甲賀の土豪であった三雲氏との繋がりから、この六角氏との和睦にも関与していたらしい。
元亀2年(1571年)、三好長逸と手を結んだ池田知正を討つため伊丹氏や茨木氏と軍勢を共にするが、摂津国白井河原の戦い(茨木川畔)で池田氏家臣の荒木村重に敗れ、戦死した。多くの貫通銃創・刀傷を受けた上、首を取ろうとした相手にも傷を負わせて死去したとされる[6]。
惟政の没後まもなく、子・惟長は高山友照、右近父子により追放され、まもなく死亡し[7]、和田氏は没落することになる。 惟政はキリスト教を自領内において手厚く保護したことが、『フロイス日本史』に詳細に書かれている。フロイスが織田信長と会見するときに仲介役を務めたほか、教会に兵を宿泊させないよう他の武士たちに働きかけたり、内裏が伴天連追放の綸旨を出すとそれを撤回させようとしたり、宣教師をむりやりにでも自分の上座に座らせたりと、大変な熱意だったようである。畿内におけるキリスト教の布教にも積極的に協力した。しかし、惟政自身は洗礼の儀式を受ける前に戦死したために、その死をフロイスは大変嘆いた。なお、キリスト教と出会う前は禅宗に属していたといわれる。 墓所は大阪府高槻市の伊勢寺。享保年間(1716 - 36年)に高槻城を改修したときに墓石が発見され、移されたといわれている。
惟政とキリスト教
脚注[脚注の使い方]^ 寛政重修諸家譜、諸家系図などによる没年齢42歳からの逆算
^ 「江州甲賀廿一家之由来書」
^ 『甲賀郡志』下巻
^ a b 久保尚文「和田惟政関係文書について」
^ ただし、この姉川の戦いに参加したとする記録は宣教師の記録にあるのみで、合戦の同日に摂津国内で惟政が出した寺社への禁制の文書(今西文書)が存在する事や、他の公方衆も参戦していない事などから、実際に参加したかどうかは疑わしい。ただ、永禄12年(1569年)10月の浦上攻め後から、元亀元年(1570年)3月まで信長関係の資料に一切登場しなくなるのは事実であり、信長と義昭の対立の中で一時存在を疎まれたのは事実のようである。
^ 『フロイス日本史』より。また彼を討ち取ったのは中川清秀とされる『寛政重修諸家譜』
^ 和田惟長の記事のように江戸時代まで生き延びたという(『寛政重修諸家譜』)説もあるが、いずれにせよ和田氏は没落している。
参考文献
久保尚文「和田惟政関係文書について」『京都市歴史資料館紀要』創刊号、1984年。 /所収:久野雅司 編『足利義昭』戒光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究 第二巻〉、2015年。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-4-86403-162-2。