和田徹
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和田 徹基本情報
国籍
日本
出身地大阪府堺市西区
生年月日 (1945-07-27) 1945年7月27日(78歳)
身長
体重178 cm
77 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション捕手内野手外野手
プロ入り1964年
初出場1964年6月7日
最終出場1978年7月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


明星高等学校

阪神タイガース (1964 - 1974)

南海ホークス (1975 - 1978)

コーチ歴


南海ホークス
福岡ダイエーホークス (1979 - 1985, 1987 - 1991, 1993 - 1995)

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和田 徹(わだ とおる、1945年7月27日 - )は、大阪府堺市西区出身の元プロ野球選手捕手内野手外野手)・コーチ解説者。あだ名は「ぶーちゃん」。息子はフジテレビの元プロデューサーの和田健。
経歴

実家は毛布販売会社を経営[1]。和田以外にも宝石店や鉄工所割烹など自営業を営む実家の息子が多かった明星高では真田重蔵監督の下、当時主流の根性野球とはまるで違う伸び伸びした環境の中でプレー[1]。真田の指導はプロ野球と似ており、打順ごとに各打者に役割を課し、1、2番打者は走塁と犠打を、中軸には長打を求めた。自ら打撃投手を買って出て、プロ仕込みの速球、カーブを投じた[1]。真田は解説の仕事で指導に行けない日は選手が練習メニューを決め、サッカー部と共用のグラウンドが使えない日は大阪城まで走った。日没で下校がルールで、和田は足りない練習を補うため、浜寺公園近くでバットを振り込んだ[1]

3年次の1963年に4番・捕手として春夏の甲子園に出場し、エース・堀川浩伸(法大)とバッテリーを組んでチームを牽引。春の選抜では1回戦で池永正明を擁する下関商に敗退し、下関商はこの大会で優勝。夏の選手権では順調に勝ち進み、準決勝で井上健仁(東映)・平岡一郎のいた横浜高を降すと、決勝で下関商と再び対決し、接戦の末に1-2で雪辱の初優勝を飾った。チームの2年後輩には、堺市立浜寺中学校の後輩でもあり、後に早大を経て巨人入りする控え捕手の阿野鉱二がいた[2]。3回戦で対戦した甲府商堀内恒夫とも、後に巨人の投手として対戦することとなる。8月末からは全日本高校選抜の一員としてハワイ遠征に参加した。

卒業後の1964年阪神タイガースへ入団し、右の強打者として期待される。6月7日の巨人戦(後楽園)に代打で初出場し、初打席はエース・城之内邦雄の前に三振に倒れ、同13日国鉄戦(甲子園)で初安打を放った。

2年目の1965年8月21日広島戦(広島市民)で安仁屋宗八から初本塁打を記録。この時の試合は、2回表に藤井栄治のソロ本塁打で先制、3回表には山内一弘の犠飛でもう一点を追加で広島先発の池田英俊を降板させ、さらに6回表に和田が2ラン本塁打でリードを広げた。投げては阪神先発のピーター・バーンサイドが要所を締めて4-0での完封勝利で5勝目を挙げた[3]

3年目の1966年安芸春季キャンプではラバーコートを2枚も着込んでハードトレーニングに耐え、食事の際には米飯を抜くなど減量に励んだ。同年8月7日のサンケイ戦(西京極)では村田元一から初のサヨナラ本塁打を記録。この試合ではサンケイ先発の村田、阪神先発のジーン・バッキー両投手が共に好投し、0-0のまま延長戦となったが、10回裏先頭の和田が左翼ポールギリギリにサヨナラソロ本塁打を放つ。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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