和田弘とマヒナ・スターズ
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和田弘とマヒナスターズ
出身地
日本
ジャンルハワイアン
ムード歌謡
活動期間1954年 (1954) - 2022年 (2022)
レーベルEMI
ビクター
東芝

メンバー松平直樹ボーカル
白片與(ギター
白片修(ベース
向坂卓人(スチールギター
山田敏夫(コーラス

旧メンバー和田弘(スチールギター)
三原さと志(ボーカル)
三島敏夫(ボーカル)
山田競生(ベース)
日高利昭(ギター)
田中政晴(ベース
佐々木敢一ウクレレ
田渕純(ボーカル)

和田弘とマヒナスターズ(わだひろしとマヒナスターズ、: Hiroshi Wada & Mahina Stars もしくは Wada Hiroshi & His Mahina Stars)は、スチールギター奏者の和田弘リーダーとする日本の音楽グループ。ハワイアンムード歌謡の第一人者として知られた。略称並びに通称であるマヒナはハワイ語で「」を意味する。
来歴

山口銀次、和田弘、三島敏夫らが「バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ」(以下アロハ)を退団し、1953年(昭和28年)にハワイアンバンド「山口銀次とマヒナスターズ」を結成。翌1954年(昭和29年)、リーダーの山口銀次が脱退しアロハに復帰したため、和田弘がリーダーとなり「和田弘とマヒナスターズ」(以下マヒナ)に改名する[1]

ハワイアンサウンドコーラスワークと作曲家吉田正によるメロディを融合して、フランク永井松尾和子らと並び、それまでにない都会的で斬新な歌謡曲ムード歌謡)を生み出し、昭和30年代から40年代前半にかけてムード・コーラスグループの第一人者として数多くのヒット曲を世に送った。

マヒナは吉田の門下として、1957年(昭和32年)にムード歌謡コーラスグループとしてデビュー。第一弾は「東京の人(三浦洸一のカバー)/哀愁の街に霧が降る山田真二のカバー)」で、第二弾は「好きだった」(鶴田浩二のカバー)を吹き込む[2]。共に既存の吉田正作品のカバーであったが、ハワイアンギターとコーラスによる「マヒナサウンド」と呼ばれることになる新しいアレンジで注目され、「好きだった」がヒットした。翌1958年(昭和33年)8月にオリジナル曲「泣かないで」を発表し、これが大ヒットした。

1959年(昭和34年)、ビクターの歌謡曲(流行歌)部門のレコード売上で「夜霧の空の終着港(エアーターミナル)」が年間2位を獲得したほか[注 1]、トップ10内に4作がランクインした[3]

1960年代には、松尾和子らの女性歌手を迎えるスタイルをとり、第2回日本レコード大賞を受賞した「誰よりも君を愛す」や、当時としては驚異的な300万枚の売上を記録した「お座敷小唄」をはじめ、「寒い朝」「島のブルース」「愛して愛して愛しちゃったのよ」「北上夜曲」など多数のヒット曲を残した[1]1967年(昭和42年)にビクターから東芝に移籍。

その後メンバーの変動があったが、1989年(平成元年)に全盛期のメンバーが再集結し[4]、同年の「第40回NHK紅白歌合戦」に紅組から22年ぶりの再出場も果たした[5]

しかし2002年(平成14年)頃に再び内紛が起き、和田と日高以外のメンバーが全員離脱、和田弘とマヒナスターズとしては事実上解散となった。

その後、松平・佐々木・三原は新たに別グループを結成。和田側も新たにメンバーを入れ、新生マヒナスターズとして再始動。2004年(平成16年)1月5日に和田が急死した[4]。その後は松平が中心となって活動を行った。


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