和田三郎
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和田 三郎(わだ さぶろう、1872年7月27日明治5年6月22日) - 1926年大正15年)11月1日)は、明治大正時代の自由民権活動家、アジア主義者板垣退助の秘書。辛亥革命の支援者。
来歴
生い立ち

『山嶽社
』を創始した医師・和田千秋の男として、1872年明治5年)6月22日高知県土佐郡土佐山村西川に生まれる[1][2][3]。母は乾久四郎の長女(つち)[4]


1887年明治20年)、高知教会の会員となる。


1891年(同24年)、植木枝盛の知遇を得る[5]。高知共立学校を卒業後、明治学院神学部へ進学。


1897年(同30年)、土陽新聞に入社しその記者となる。


1901年(同34年)、同上を退職し、板垣退助の書生(秘書)となる。


1902年(同35年)、板垣退助監修のもと、宇田友猪の後任として『自由党史』を執筆。(明治43年に完成し出版)


1905年(同38年)、板垣退助の内命をうけて孫文の設立した「中国革命同盟会[6]」に参加。


1906年(同39年)、宮崎滔天(桃中軒牛右衛門)、平山周萱野長知(高知共立学校時代の同級生)らと革命評論社を設立。『革命評論』を創刊して、孫文らの辛亥革命を支援。


1911年(同44年)、板垣退助の雑誌『社会政策』や、『日本及日本人』、『太陽』に論文を寄稿した。


1926年大正15年)11月1日死去。享年55歳。

山嶽社

和田三郎の生家は、祖父・和田波治、父・和田千秋が自宅を提供して夜学会を開いた場所で、のちに高知市土佐山地区(旧 土佐山村)の西川集落における自由民権運動の拠点となった『山嶽社』が創始された場所として、1991年(平成3年)、文化財として修復管理されている[7]
脚注[脚注の使い方]^ “『山嶽社』”. 高知県の観光情報 (2015年5月1日). 2017年7月29日閲覧。
^ “『土佐山の山嶽社』”. 高知市広報『あかるいまち』 (2006年5月1日). 2017年7月29日閲覧。
^ 『山嶽社』明治時代にこの地域の自由民権運動の拠点だった場所。板垣退助の秘書、和田三郎の生家でもある。和田三郎は板垣退助の秘書として活躍した人物。建物は1991年(平成3年)に復元された。今は、子供達の勉強会などに利用されている。(『高知県の観光情報』より)
^ 高知県出身の郷土史家乾常美は親戚
^ 『20世紀日本人名辞典』、「和田三郎」の項
^ 後に日本政府の干渉により「中国同盟会」と改称
^ “ ⇒『山獄社跡』”. 土佐の歴史散歩 (2008年9月30日). 2017年7月29日閲覧。

参考文献

『高知県人名事典』高知市民図書館、1971年

『土佐山村史』

『日本教育史資料(巻九)』

『土佐の自由民権』公文豪著、
高知新聞社、2013年

関連項目

自由民権運動

板垣退助

辛亥革命

宮崎滔天

平山周

萱野長知


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