和田一浩
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和田 一浩中日ドラゴンズ 打撃コーチ #75
中日ドラゴンズ選手時代
(2013年3月6日 阪神甲子園球場
基本情報
国籍 日本
出身地岐阜県岐阜市
生年月日 (1972-06-19) 1972年6月19日(51歳)
身長
体重182 cm
85 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手捕手
プロ入り1996年 ドラフト4位
初出場1997年4月30日
最終出場2015年9月24日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


岐阜県立岐阜商業高等学校

東北福祉大学

神戸製鋼

西武ライオンズ (1997 - 2007)

中日ドラゴンズ (2008 - 2015)

コーチ歴


中日ドラゴンズ (2023 - )

国際大会
代表チーム 日本
五輪2004年
WBC2006年
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オリンピック
男子 野球
2004野球
ワールド・ベースボール・クラシック
2006

和田 一浩(わだ かずひろ、1972年6月19日 - )は、岐阜県岐阜市出身の元プロ野球選手外野手捕手、右投右打)、プロ野球コーチ日本プロ野球名球会理事[1]野球解説者タレントマネジメント契約先はスポーツビズ

愛称は同姓の演出家・和田勉にちなんだ「ベンちゃん」[2]、さらにそれが転じた「ビッグベン[3]など。ナゴヤドームの外野スタンドで掲げられている横断幕には「輝く男」という文字が入っていた。アテネオリンピック野球の銅メダリスト。
経歴
プロ入り前

岐阜県岐阜市出身。岐阜市立鷺山小学校3年次にスポーツ少年団に入り[4]岐阜市立青山中学校卒業を経て、県立岐阜商業高校(県岐商)では2年時に控え捕手として第61回選抜高等学校野球大会第71回全国高等学校野球選手権大会に出場した。

高校卒業後、東北福祉大学に進学し、仙台六大学野球連盟のリーグ戦では4年間で首位打者1回、ベストナイン3回を獲得する。4年時には主将となり、春のリーグMVP(2年秋にも)に輝いた。同期に青蜚歯カがいる。

大学卒業後は社会人野球神戸製鋼に入社。大学の1年後輩である門倉健は「和田さんは、僕が打たれても代わりに監督に怒られてくれる懐の深い先輩だった。当時から打撃は天才的で強肩。それでもプロから声がかからず、社会人を経由した。あのクラスでもプロに行けないのかと愕然とした」という[5]都市対抗野球には1年目は補強で出場し本塁打を放つ、2年目は4番を打って前年と同様に谷中真二(西武へ同期入団)とのバッテリーで初戦プリンスホテルに7回コールド完封勝利[6]

社会人通算.429の打率を残し、強打の捕手として1996年のドラフト会議西武ライオンズから4位指名を受け入団。背番号は22。
西武時代

1997年の西武には正捕手だった伊東勤がいたため、主に代打として起用された。17試合に出場し、打率.190、2打点だった。

1998年は打力を活かすため外野手にも挑戦し、8月4日の近鉄バファローズ戦(大阪ドーム)ではプロ初本塁打を記録した。日本シリーズにも初出場した。

2000年に出場機会が増え、規定打席未満ながら打率.306を記録。9月9日には初の4番を任され、9番以外の全打順でスタメン出場。守備位置は捕手9試合、一塁手15試合、外野手18試合、指名打者12試合と、徐々に捕手から外野手へとシフトしていった。またこの年に、同じく西武の捕手だった中嶋聡が、捕手らしい背番号を欲しており、入団以来背番号「22」だった和田は当時中嶋がつけていた一桁の「5」と背番号を交換。以降引退まで同番号を背負うことになる。

2001年は、監督の東尾修に「次世代を担うバッテリー」として松坂大輔と開幕戦でスタメン起用され、その後も松坂と7回にわたってバッテリーを組んだ。打撃も好調で一気に16本塁打、規定打席未満ながら打率.306を記録した。守備位置はまだ捕手と外野手で一定せず、打順も2番と4番以外全てに起用された。9月24日の近鉄最終戦で松坂大輔がタフィ・ローズに55号本塁打、中村紀洋に逆転サヨナラ2点本塁打を打たれた試合で捕手として出場していた。

2002年、新たに監督に就任した伊原春樹が前年のキャンプ迎えにあたって、伊原から「キャッチャーミットは持ってこなくていいから。」と言われ、「和田は同年、25試合にマスクをかぶっていたが優しい性格をしており、私は捕手には向いていないように感じていた。一方、打撃は.306、16本塁打、34打点をこの年に挙げていたことからもわかるように光るものがあった。捕手よりも負担の少ない外野にすれば、打撃が生きるだろうと考えたのだ。」[7]と述べている。外野手一本に絞り[8]、「5番・左翼手」のレギュラーに定着。故障離脱があったが、30歳にして初めて規定打席に到達し、打率.319、33本塁打、81打点という成績を残し、優勝に貢献した。指名打者部門で初のベストナインを受賞。しかし読売ジャイアンツとの日本シリーズでは15打数0安打と低迷し、「逆シリーズ男」とされた。結果的にチームは巨人にストレートの4連敗で敗退し、自身の不振が響くことになった[9]

2003年から4年連続で外野手部門でベストナインを受賞。

2004年は開幕から約3か月間、故障中のアレックス・カブレラに代わって4番打者を務める[10]。4月11日の対大阪近鉄バファローズ戦(西武ドーム)で6-6の同点で迎えた9回一死満塁の打席でヘクター・カラスコから自身初のサヨナラ本塁打及び満塁本塁打であるサヨナラ満塁本塁打を放った[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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