和泉 式部(いずみ しきぶ、天元元年〈978年〉頃 - 没年不詳)は、平安時代中期の歌人である。越前守・大江雅致の娘。百人一首の歌人であり、中古三十六歌仙そして女房三十六歌仙の一人でもある。 本名そして正確な生没年ともに不明である。和泉式部の「式部」は、雅致が文章生出身の式部丞だったからであるとする説が存在する[1]。 和泉式部には、姉妹が何人かいたことが歌集・『和泉式部正集 『正集』には春夏秋冬+恋に部立された「百首歌」が見えるが、これは橘道貞との婚姻以前の正暦4年(993年)前後に詠まれたと考えられている[3]。 長保元年(999年)頃までに和泉守・橘道貞の妻となった。この婚姻は、父・雅致が計ったものであったとされる[3]。後の女房名「和泉式部」は夫の任国・和泉国と父の官名を合わせたものである。長徳3年(997年)?長保元年(999年)の間には娘の小式部内侍が誕生している。『正集』によれば、この頃に「幼き稚児(小式部内侍)の病みけるを、あはれと思ふべき人」に対して歌を送っているが、この人物は橘道貞と見られ、和泉式部と小式部内侍は同居して京都におり、道貞のみが和泉国へ下向していたと考えられる[3]。和泉国に下向した後の橘道貞と和泉式部は、歌を送り合っており、また、長保元年(999年)には、橘道貞亭で一家をあげて太皇太后・昌子内親王の看病に当たっていたため、この時点では2人の夫婦関係は良好であったと見られる[3]。 道貞との婚姻は後に破綻した(後述するように離婚状態にはなっていなかった)が、小式部内侍は母譲りの歌才を示した。 冷泉天皇の第三皇子・為尊親王との熱愛が世に喧伝されるが、身分違いの恋であるとして親から勘当を受けた。 為尊親王の死後、今度はその同母弟・敦道親王(帥宮)の求愛を受けた。親王は和泉式部を邸に迎えようとし、正妃(藤原済時の娘)が家出する原因を作った。また、源雅通との交流も『正集』に見え、歌の内容からして、一時恋愛関係にあったと見られ[3]、加えて、『和泉式部日記』では「治部卿(源俊賢か)」の存在も噂されている。為尊親王が和泉式部を伴い、藤原公任の白川にあった別業を訪ねているが、『公任集
経歴
誕生の娘の間に生まれる[2]。父の大江雅致は、一説には大江匡衡の兄であるとされる[1]。鎌倉期に成立した『中古歌仙三十六人伝
兄弟
経歴