和歌浦
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「和歌の浦」はこの項目へ転送されています。静岡県下田市の和歌の浦については「和歌の浦 (下田市)」をご覧ください。

和歌浦
わかうら
日本
地方近畿地方
都道府県和歌山県
自治体和歌山市
旧自治体和歌浦町
面積3.04km²
世帯数4,194世帯
総人口10,265人( ⇒国勢調査、2005年10月1日現在)
人口密度3,376.64人/km²
隣接地区雑賀崎地区、雑賀地区、宮前地区、名草地区
和歌山市役所和歌浦支所
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所在地〒644-0001
和歌山県和歌山市和歌浦西二丁目1-19
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高津子山から望む不老橋と鏡山、塩竈神社三断橋と妹背山、海禅院

和歌浦(わかのうら)は和歌山県北部、和歌山市の南西部に位置する景勝地の総称。国指定の名勝。2017年4月に「絶景の宝庫 和歌の浦」として日本遺産に認定された[1]

住所表記での「和歌浦」は「わかうら」と読むために、地元住民は一帯を指して「わかうら」と呼ぶことが多い。狭義では玉津島と片男波を結ぶ砂嘴と周辺一帯を指すのに対し、広義ではそれらに加え、新和歌浦、雑賀山を隔てた漁業集落の田野、雑賀崎一帯を指す。名称は和歌の浦とも表記する。

万葉集』にも詠まれた古からの風光明媚なる地で、近世においても天橋立に比肩する景勝地とされた。近現代において東部は著しく地形が変わったため往時の面影は見られないが、2011年にようやく国の名勝に指定され、また自然海岸を残す西部の雑賀崎周辺は瀬戸内海国立公園の特別地域に指定されており、それぞれ保護されている。

本項では和歌山市和歌浦支所の管轄地域と、その前身である海草郡和歌浦町(わかうらちょう)、同町の町制前の名称である海部郡・海草郡和歌村(わかむら)についても述べる。
名称の由来

和歌浦は元々、若の浦と呼ばれていた。聖武天皇行幸の折に、お供をしていた山部赤人が『万葉集』巻六の919番歌に、

若浦爾 鹽滿來者 滷乎無美 葦邊乎指天 多頭鳴渡
(若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る)

と詠んでいる。「片男波」という地名は、この「潟をなみ」という句から生まれたとされる。また、『続日本紀』によれば、一帯は「弱浜」(わかのはま)と呼ばれていたが、聖武天皇が陽が射した景観の美しさから「明光浦」(あかのうら)と改めたとも記載されている。和歌浦には明光商店街があるが、これは続日本紀の明光浦の呼称にちなんでいるものである。

平安中期、高野山熊野の参詣が次第に盛んになると、その帰りに和歌浦に来遊することが多くなった。中でも玉津島は歌枕の地として知られるようになり、玉津島神社は詠歌上達の神として知られるようになっている。また、若の浦から和歌浦に改められたのもこの頃であり、由来には歌枕に関わる和歌を捩ったともいわれる。
歴史歌川広重の描いた和歌浦
奈良・平安時代

当時、和歌浦で最も著名な景勝は玉津島である。当時の玉津島は海上に浮かぶ小島であった。そして、潮の干満で陸と続いたり離れたりする景観を呈していたという。その神聖さから丹生より稚日女尊、息長足姫尊(神功皇后)らを勧請し、玉津島神社が設けられた。また、玉津島の西側に発達した砂嘴は、片男波も今よりずっと内側に入り込んでいたものと推測されており、赤人の句のとおり、などの水生植物が生い茂る湿地帯であった。

この和歌浦は都に近いことも相俟って多くの文人、貴族らに愛されてきたが、とりわけ聖武天皇はこの和歌浦を気に入り、何度も行幸している。また、この風致を維持するために、守戸と呼ばれる監視役を配置させた。

また、平安の頃には康保年間に、神霊の勧請を受けて天満宮が建設された。これは菅原道真左遷の際に、風避けの際に和歌浦に立ち寄ったことが縁となっている。
江戸時代

江戸幕府が開府されると、和歌山御三家である紀州徳川家城下町として賑わうこととなった。その際に建てられたのが紀州東照宮である。初代紀州藩主の徳川頼宣は祭神に実父である東照大権現(徳川家康)を勧請し、正式に東照宮から遷宮を行ったものである。その例祭、和歌祭は今日に至るまで和歌浦を代表する祭礼として脈々と伝わっている。

また、和歌浦のシンボルにもなっている不老橋は、第13代藩主徳川慶福の治世に第10代藩主徳川治寶の命によって、東照宮御旅所の移築に際して建造された石造の橋梁であり、肥後出身の石工が建造に関わっている。


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