和服
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和服
着物
和服を着る女性
日本語
漢字 和服
ひらがな わふく

和服(わふく)とは、日本在来の衣服のことで、近年では日本における民族服ともされる。着物(きもの)ともいう。洋服の対義語としても用いられる。外国人向けに制作された和服の部位の説明。
概説
和服という用語

「和服」は、文字通り「和」の「服」、すなわち日本の衣服という意味である。この言葉は明治時代に西洋の衣服つまり「洋服」に対して、「従来の日本の衣服」を表す語として生まれたレトロニムである。

服飾史学者の小池三枝によれば、「着物」は元来「着る物」という意味であり、単に「衣服」を意味する語であった。しかし幕末に洋服が移入して以降、「西洋服」・「洋服」と区別して、「従来の日本の衣服」を(レトロニムで)「日本服」・「和服」と呼ぶようになり、さらに「着物」の語にも置き換えられるようになった。時代が進み、日常生活で頻繁に洋服が用いられるようになると、「着物」から「着る物」という本来の意味は薄れていき、「和服」の意味が濃くなっていった。現代での「着物」という語は専ら「和服」を意味し、狭義には一定の形式の和服(着物と羽織という場合の着物、つまり長着)を指す言葉に移りつつある[1]。それと同時に、「洋服」が「着る物」の意味で使われるようになった。

日本で和服という言葉が生まれる明治時代よりも前の16世紀の時点で、日本人が衣服のことを指して呼んだ着物(kimono)が、現在で言う和服を表す語としてヨーロッパ人に知られるようになり、現在ではヨーロッパに限らず世界の多くの言語で日本で和服と呼んでいる物を kimono と呼んでいる。kimono は、日本の和服だけではなく、東アジア圏全般で見られる前合わせ式の服全般を指すこともある[要出典]。明治大学政治経済学部教授で文学者のマーク・ピーターセンの解説によるとkimonoは「和服」ではなく「着物風の婦人用化粧着」[注釈 1]というものを表わす英単語として使われ、さらに「着物姿の」という意味で"kimonoedと単語の活用がなされる場合がある[2]

呉服という呼び名については、これは和服用の織物の呼称の一つで、特に絹織物を指す語である[3][4][5]。もともとは絹織物を指す語として、綿織物麻織物を指す「太物(ふともの)」と区別されていたが、現在は和服用の織物の総称としても使われている[3][4]日本庭園に佇む和服を着た女性。京都嵐山竹林の道を歩く和服姿の女性。
和服の、世界の衣服の中での位置づけと特徴

そもそも衣類を大きく分類すると、懸衣型(けんいがた)、寛衣型、窄衣型(さくいがた)の3種に大別できる[6]。懸衣型とは布を裁断したり縫ったりすることなく、身体に懸(か)けたり巻いたりするだけで成り立つ衣服。寛衣型とは緩やかなワンピース形式の衣服。窄衣型(さくいがた)とは、身体にぴったり合うように(曲線的に裁断したり縫ったりして、立体的に)「仕立てた」衣服。これら3種がさらにそれぞれ2種類に分類されている[6]ので、それらの関係を以下に示す。

懸衣型(けんいがた):身体にかけたり巻いたりするだけで成り立つ衣服[6]

貫頭衣形式 (poncho ポンチョ形式): 1枚の布地の中央部に穴を開けるか切り目を入れ、そこから頭を通して身体の前後に布地を垂らし、身頃(みごろ)にした衣服。中南米の原住民の外衣にみられる[6]

巻衣(まきい)形式(drapery 形式) : 身体に巻いたり、袈裟状に斜めに懸けたりした衣服。たとえば古代ギリシアのキトンや古代ローマのトーガ、インドのサリーなどである[6]


寛衣型:緩やかなワンピース形式の衣服[6]

寛袍(かんぽう)形式(robe ローブ形式): 緩やかに包む服で、たとえば緩やかな中国服やヨーロッパ中世ブリオーなどにみられる[6]

前開(あ)き服形式(caftan カフタン形式):身頃を前で開いたままか、またはあわせて着る服である[6]。トルコのカフタンや和服などがこれに当たる[6]


窄衣型(さくいがた) 布を裁断したり裁縫したりして身体にぴったり仕立てた衣服[6]。窄衣型の典型は北方の寒帯地域にみられるが、活動に便利なので、部分的には温暖な地域でも着られた[6]

密着服形式(shirt シャツ形式):シャツ状の(身体に密着する)衣服[6]。たとえば古代エジプトの女子や古代メソポタミアの男女の衣服にみられる[6]

円筒服形式(tunic チュニック形式):チュニック形式の衣服のこと[6]。近・現代の洋服や、中国北方の諸民族が着用したいわゆる胡服(こふく)にその典型をみることができる[6]

つまり、和服は「寛衣型」の中の「前開き服形式」の衣服である。

長着を身体にかけ、を結ぶことによって着つける[7]

洋服は曲線で裁たれたパーツを組み合わせ、立体的な身体に沿わそうと造形されるのに対し、和服は反物から直線で切り取ったパーツを縫い合わせた平面構成により造形される[7]
歴史
簡史

古墳時代以前は確固たる資料が乏しいため、主に埴輪など出土物の形状から判断することになる。それによると筒袖、垂領という小袖系の着衣やの祖型ともいえる着衣が既に見える[8][9]

奈良時代は上流階級が中国の唐朝に強い影響を受けた時代とされ、当時の唐の漢服の影響を受けたとみられる衣装が多い。また、衣服令として朝廷で着る服として、礼服・朝服・制服が定められている。一方で、庶民階級は簡素で働きやすい衣装を着るもので、この時代後も古代以来の上衣・袴形式のものを身に着けている[9][10]

平安時代前期に遣唐使が廃止され唐が滅び、平安時代中期から後期以降はいわゆる国風文化が栄えた時代である。上流階級の間では十二単束帯を始めとした新しい衣装が生まれた。下半身に袴等を着用し、上衣に複数の衣装を重ね着する豪華なものが多い。この貴族階級では小袖は単に上半身の下着として着用されていた[9]。一方で、平安、鎌倉時代で庶民階級では小袖が一般服であり、それを袴で括った上衣、袴形式等の簡素なものを身に着けていた[10]。また、庶民階級における小袖はさらに簡素に小袖一枚に腰帯を巻くだけというものが多くみられるようになる。これを小袖の着流しともいう。また、筒袖から詰袖に変化している[9][11]。例えば平安時代末期の伴大納言絵詞にある庶民の服装の女性の一部[11]や、大山寺縁起の稲作を行う女性たちである。労働者階級にとっては袴などは邪魔になることもあった[12]。もっともこの小袖が現代の着物のベースとなっていく。

鎌倉時代後半や室町時代以降になると、公家階級の弱体化が極に達し、さらに元々が平民に近い[注釈 2]武力集団である武士達が上流階級化することによって、従来の豪華な上衣がなくなっていき、最下層衣として着られていた小袖が表に現れ、庶民の間での小袖と一体化し、室町時代にはもっともシンプルで現代の着物のベースとなる小袖が生まれたと言える[9]。小袖に袴をつけたいわゆる小袖袴はこの時代略装として扱われ、後に正装となる[13]。例えば現代の男性向けの着物と言える羽織袴は、小袖袴に羽織をまとったものである[14]。また、ついには上流階級でも袴を取り去ってしまうようになり、上流下流問わず小袖の着流しは一般的な略装となっていく[15]

江戸時代に入ると、太平の世に伴い女性ものの小袖もより多様な絵柄がついたり形状が変化したりと需要に応じて華やかに変化していく。袖丈が伸び、帯は長大化し、着崩れ防止のために歌舞伎で使われていた帯締めの転用により、現代みられる振袖となった。これらの経緯から現代の一般的な着物に至る。
縄文時代・弥生時代

縄文時代の身体装飾については石製や貝製の装身具などの出土事例があるが、衣服に関しては植物繊維などの有機質が考古遺物として残存しにくいため実態は不明である。ただし、編布(アンギン、縄文期独自の編み物)の断片やひも付きの袋などの出土事例があり、カラムシ(苧麻)・アサ(麻)などの植物繊維から糸を紡ぐ技術や、できた糸から地を作る技術はあったことがわかる。この編布から衣服が作られて着られていたと推測されている。

縄文時代には人形を模した土偶の存在があるが、土偶の造形は実際の身体装飾を表現したとは見なしがたい抽象文様で、実際の衣服の実態をどの程度反映しているかはっきりしない。

弥生時代の衣服についても、出土事例は少なく、『魏書』東夷伝の一部の「魏志倭人伝」によって推測されているのみである。魏志倭人伝の記述によると、倭人の着物は幅広い布を結び合わせている、男性は髪を結って髷にしているとある。
古墳時代・飛鳥時代

古墳時代豪族たちの墳墓から発掘される埴輪は、当時の服装を知る貴重な資料である。古墳時代の日本人の服は男女ともに上下2部式であり(つまり、現代の洋服の「トップス」と「ボトムズ」のような上・下の構成であり)、男性は上衣と ゆったりしたズボン状の袴で、ひざ下をひもで結んでいる。女性は上衣と喪(裾の長いロングスカート)の姿である。襟は男女ともに左前の盤領(あげくび)という詰衿形式が多い。これらの服装は貴族階級のものと推測される[16]

日本書紀』によると、603年に、聖徳太子が、優れた人を評価する冠位十二階を定めて、役人の位階によっての色を定めている。これより上層階級は、の衣服令に従って中国大陸の漢服を模倣することになる[17]

7世紀末ごろに、国号が日本と決められた。7世紀末から8世紀初めに作られた高松塚古墳の壁画が1972年から研究された。飛鳥時代の人々の姿が描かれたもので現在も残っているのは、高松塚古墳の壁画だけである。その壁画の一部に描かれていた男子と女子の絵と、『日本書紀』の記述が、飛鳥時代の衣服の考古学上の資料である。現在の研究者達の報告によると、高松塚古墳の壁画の人物像では、男女ともに全ての衿の合わせ方が左衽(さじん)、つまり左前だったという。その壁画では、上半身を覆う服の裾が、下半身を覆う服と体の間に入っていないで、外に出て垂れ下がっているという。その壁画に描かれた服の帯は革でなく織物ではないかと推測されている。@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important}

高松塚古墳の女子群像

高松塚古墳

奈良時代「天平衣装」も参照

奈良時代の服飾は中国大陸の漢服の影響を受けているとされ、意匠的に似ている部分が多い[18][19][20][21][22]。前合わせで帯を締める構成が基本となっているなど、基本的な構成にも似た部分がある。唐の礼制は日本の有職故実の一つの要素であった。

701年に日本で制定された『大宝律令』と、『大宝律令』を改めて718年に制定された『養老律令』には、衣服令が含まれていた。『大宝律令』と『養老律令』は現存していないが、『令義解』、『令集義解』から『養老律令』の内容が推定されている。

衣服令では朝廷で着る服として、礼服(らいふく)[注釈 3]朝服(ちょうふく)、制服が定められている。礼服は、重要な祭祀、大嘗祭(おおなめのまつり,だいじょうさい)、元旦のときに着る服である。朝服は、毎月1回、当時朝庭と呼ばれた場所で朝会と呼ばれるまつりごと。[注釈 4]をするときと、当時公事と呼ばれたことを行うときに着る服である。制服は、特別な地位にない官人が朝廷の公事を行うときに着る服である。

礼服・朝服・制服の形式・色彩は、それぞれの地位や役職によって違いがある。武官の礼服と朝服の規定に、位襖(いおう)が含まれており、研究者達により、位襖は、地位によって違う色を使った襖(おう)であることが分かっている。『古記』によると、襖とは、襴(らん)がなく、腋線を縫わない服で、後の時代の闕腋の袍(けってきのほう)と呼ばれる服と共通点がある。武官の朝服には、ウエストを固定するための革のベルトがあったと考えられている。


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