和宮親子内親王
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親子内親王(和宮)
徳川家
『幕末・明治・大正回顧八十年史』より
続柄仁孝天皇第8皇女

全名親子(ちかこ)
称号和宮(かずのみや)→静寛院(せいかんいん)、静寛院宮(せいかんいんのみや)
身位内親王徳川将軍家御台所
出生弘化3年5月10日1846年7月3日
山城国
死去 (1877-09-02) 1877年9月2日(31歳没)
神奈川県箱根塔ノ沢温泉
埋葬東京都港区増上寺
配偶者徳川家茂
子女なし
父親仁孝天皇
母親橋本経子
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親子内親王(ちかこないしんのう、1846年7月3日弘化3年5月10日〉- 1877年明治10年〉9月2日)は、仁孝天皇の第8皇女。御称号は和宮(かずのみや)。江戸幕府第14代将軍徳川家茂正室御台所)。家茂死後には落飾し、静寛院(せいかんいん)の院号宣下を受け、静寛院宮(せいかんいんのみや)と名乗った。

「和宮」(かずのみや)は誕生時に賜わった幼名で、「親子」(ちかこ)は文久元年(1861年)の内親王宣下に際して賜わったである。孝明天皇の異母妹。明治天皇叔母にあたる。品位二品、薨後一品
生涯
生い立ち

弘化3年(1846年5月10日、京都御所の東に隣接する橋本邸において、仁孝天皇の第八皇女として生まれる。母は側室・橋本経子(観行院)。閏5月16日、異母兄・孝明天皇より和宮の名を賜る[1]。父・仁孝天皇は和宮の誕生に先立つ1月26日に崩御しており(遺腹の子)、和宮は勅命により橋本邸で養育された。

嘉永4年(1851年)7月12日、孝明天皇の命により有栖川宮熾仁親王と婚約する。
降嫁

安政5年(1858年)6月27日、日米修好通商条約の無断調印の旨が宿継奉書で京都に知らされた。翌日の28日、孝明天皇は譲位の意思を示した。驚愕した一同に諌止されたが、朝廷は幕府へ説明を求め大老の井伊直弼および御三家に上京を求めた。しかし多忙または謹慎中のため、京都所司代の酒井忠義、老中の間部詮勝が京都へのぼることになった。その一方、7月11日に日露修好通商条約、7月18日に日英修好通商条約は勅許がないまま調印された。7月22日、孝明天皇は近衛忠煕に再び譲位の意思を示した宸翰を下した。

8月5日に孝明天皇が出された「御趣意書」を近衛忠煕、鷹司輔煕一条忠香三条実万は関東へ送るように命じられた。8月7日に朝議がひらかれる予定となったが内覧関白・九条尚忠が朝議に出席しなかった。このため内覧を経ない正式ではない勅書が誕生し8月8日に水戸藩、次いで幕府へ下された(戊午の密勅)。水戸藩への宸翰は朝廷内でも異論が出たが近衛や鷹司が押し切ったとされる。9月2日、幕府寄りの九条へ関白辞職を求める内勅が出され当日に辞表を受理、4日に内覧辞退の勅許が出された。これらが引き金となり9月より京都では宮家・公卿の家臣が捕縛拘引された。10月19日、九条尚忠は関白に復職し、10月24日に参内した間部詮勝は虚偽と欺瞞に満ちた弁疏をだした。12月24日、間部を再度参内させた孝明天皇は公武一和の立場より将来、鎖国に戻るとの説明を受け入れた(心中氷解の沙汰書)。

『岩倉公実記』によると10月1日、近衛忠煕と酒井忠義の会話の中で、加納繁三郎[2]が提案していた件が話に出た。酒井は近衛に加納案、具体的には和宮が降嫁すれば公武一和に役立つと切り出したことが降嫁発案の発端とされる。孝明帝の近臣であった近衛は公武一和は結構だが熾仁親王との婚約が決まっており無理な話だと意見を述べた。

安政6年(1859年)、酒井は九条尚忠へ和宮降嫁を打診した。幕府寄りの九条だが婚約は孝明帝の命令であるため無理だと断り、孝明帝の皇女・富貴宮(1歳)を降嫁するなら尽力すると約束した。経緯は不明だが、和宮降嫁の話は和宮の生母・観行院(橋本経子)の叔母で元大奥上臈年寄の勝光院に伝わった。勝光院は真相を観行院の兄で橋本家の当主である橋本実麗へ書信で尋ねた。観行院は信じなかったが実麗は幕府のやり方ならありえると考えた。この年の1月より酒井と九条は戊午の密勅にかかわった宮、公卿への辞官落飾(四公落飾)を孝明天皇から出させるように圧力を加えていた。4月22日、抵抗する力のない天皇は受け入れた。観行院と実麗は降嫁の噂を和宮には話さなかった。5月25日、議奏久我建通らが和宮の降嫁を内議した。8月2日、富貴宮が薨去。徳富蘇峰の『近世日本国民史』は翌年にも酒井所司代の家来が橋本邸を訪れた事情を伝えている。

『岩倉公実記』によるとその翌年、月日は不明だが、九条家の家宰・島田左近が実麗へ和宮降嫁を持ち出した。噂が事実であると分かった実麗だが返事ができなかった。

万延元年(1860年)4月12日、幕命を受けた酒井忠義は九条尚忠へ和宮の将軍家降嫁を奏請した。孝明天皇は議奏・武家伝奏に諮った上で、

和宮には既に熾仁親王との婚約が成立している。

先帝の娘であり異腹の妹である和宮の進退は、天皇の意志のままにはできない。

年少の和宮が異人のいる関東へ行くのを嫌がっている。

ことを理由に内願を却下した。

5月11日、酒井忠義は幕府の許可を得ないまま、九条尚忠へ宛てて再考を願い出ている。すなわち

和宮と熾仁親王はまだ結納を済ませていないため内約であり、破約しても天皇の信用を損なうものではない。

皇妹の縁組は先例もあり、遠い関東へ移るなら尚更のこと大事に扱う。

朝廷から人数を送り、また関東は武士が参勤する地でもあれば異人より警護もできる。

とした上で、孝明天皇が国内の安定を願っている点を押さえて

一昨年より幕府と朝廷の齟齬をきたした点について、我々は理解している。

しかし世間には明らかとなってはいない。

そのうえで断ったのでは幕府閣僚が孝明天皇の思し召しについて、心配になってしまうのも仕方ない。

京都と関東で書信の往復が繰り返されると立たない角でも端々に立ってしまう。

それでは今までなしてきた公武一和にも影響がでかねないのは自分としては心配である。

と公武合体に沿った決断を求めた。

幕府は、5月26日に重ねて和宮の降嫁を奏請した。同時に生母・観行院と伯父の橋本実麗、さらに勝光院を通じての説得工作を行った。

橋本実麗は説得に折れ、何事も天皇の思召しに従うと言上した。孝明天皇は、侍従・岩倉具視に意見を求めた。岩倉は「幕府に通商条約の引き戻し(破約攘夷)を確約させ、幕府がこれを承知したら、御国の為と和宮を説得し、納得させた上で降嫁を勅許するべき」と回答した。6月12日、天皇は「攘夷を実行し鎖国の体制に戻すならば、和宮の降嫁を認める」旨の勅書を出し、幕府が7月18日に「10か年以内の鎖国体制への復帰」を奉答したことで天皇は和宮の降嫁を決断した。

8月7日、和宮は宮中へ上がり、縁組を固く辞退した。既に幕府に攘夷を約させた上で降嫁が成らなければ、朝廷の信義が疑われると苦慮した天皇は、久我建通の言を容れ、

和宮があくまで辞退するなら、前年に生まれた皇女・寿万宮を代わりに降嫁させる。

幕府がこれを承知しなければ、自分は責任をとって譲位し、和宮も林丘寺に入れて尼とする。

と決意した。また、同13日の九条尚忠に宛てた書翰には、「(降嫁に反対する)橋本実麗・観行院の両名を罰するよう幕府に依頼し、和宮も降嫁の話を断って有栖川宮と縁組しようとしても自分は認めないから、尼になるしか道はない」という旨の文言がある[3]。天皇の譲位の決意、親族への圧力を示唆された和宮はここに降嫁を承諾するに至る。

8月15日、観行院から和宮が降嫁を内諾する旨が奏上される。降嫁にあたって和宮は、
父・仁孝天皇の十七回忌の後に関東に下向し、以後も回忌ごとに上洛させること。

大奥に入っても、万事は御所の流儀を守ること。

御所の女官をお側付きとすること。

御用の際には伯父・橋本実麗を下向させること。

御用の際には上臈か御年寄を上洛させること。

の5か条を条件とした[4]。また孝明天皇は別に、

和宮の提示した条件を遵守すること。

老中が交代しても攘夷の誓約は変わらないこと。

和宮の降嫁は公武の熟慮の上で決定されたことを天下に周知させること。

外国との貿易によって国民生活が窮乏しないよう対策を講じること。

降嫁前に和宮の内親王宣下を行うこと。

などの条件を幕府に提示している。だが、早期の婚儀を望む幕府は年内の降嫁を要請した。和宮はこれを拒むが、10月5日に孝明天皇の説得を受けて明春の下向を承諾する。

万延元年(1860年)10月18日、孝明天皇は和宮の降嫁を勅許し、中山忠能らが縁組御用掛に任ぜられて和宮付女官の選定に入り、(宰相典侍)庭田嗣子・(命婦)鴨脚克子らが選定された。


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