周 璇
基本情報
中国語周 璇
漢語?音Zh?u Xuan
生誕 (1920-08-01) 1920年8月1日
中国江蘇省常州
死没1957年9月22日(1957-09-22)(37歳)
中国上海・華山医院
周 璇(しゅう せん、チョウ・シュアン、中国語: 周 璇、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Zh?u Xuan、1920年8月1日 ‐ 1957年9月22日)は、中国の歌手、女優。本名は蘇璞[1]。後に王小紅、周小紅と改名。1930年代から1940年代の有名な歌姫、映画スターであり、上海を中心に活躍した七大歌后の1人。その美声と美貌で “黄金の喉”、“歌の女王”、“銀幕の女王” とも称された。 1920年、江蘇省常州の知識人家庭に生まれる[1]。父親の蘇調夫は金陵大学卒業後、前後して牧師と教師を務め、常州ではとても有名な人物であった。母親の顧美珍は金陵女子大学
経歴
幼少期から黎明期
1931年、ピアノ教師である章錦文の紹介で周小紅は黎錦?(中国語版、英語版、フランス語版、ノルウェー語版)が設立した明月歌舞団(別名:聯華歌舞班)に参加した[2]。初めて舞台に立った周小紅は「民族之光(民族の光)」という曲の中の〝與敵人周旋於沙場之上(敵と砂原においてわたり合う)〟という歌詞の一節を唄うと聴衆から熱烈に称賛された。このことで黎錦?は “周小紅” に替えて “周 璇” という芸名を与えている。芸名の由来は「民族之光」の歌詞《興敵人周旋於沙場之上(敵の奴等を戦場でもてなそう)》という一節に因み[3]、更に “旋” に “王” 偏が付け加えられたものである[2]。
明月歌舞団に入団後、周璇は歌や舞踊、ピアノ等を熱心に学び、同時に國語を重視する歌舞団の方針もあり北京語を学ぶこととなる。それまで彼女は上海語しか話せなかった。その時の個人教師役を買って出た者こそ後の夫の嚴華(中国語版)である。嚴華は黎錦光と共に黎錦?の補佐的な立場にいた。やがて周璇は看板女優だった王人美の不在の穴埋めとして『特別快車』で初舞台を踏み歌唱、評判を得るがそれも束の間、明月歌舞団が解散を余儀なくされる。その後は嚴華により新結成された新華歌舞社に参加、舞台でも歌舞劇を演じると同時にラジオへも積極的に出演するようになる[2]。当時、上海で生まれた “新歌” にとって、歌舞団の公演やダンスホールなどにまして最も重要な媒体はラジオだったが、周璇も “無敵牌牙粉(無敵印の歯磨き粉)” のプロモーションのためのテストで唄ったところ、聴取者の反響を呼び歌手として見出されたという[4]。同年、新聞社 “大晩報” 主催の《播音歌星競選》というラジオ歌手コンテストに出場、白虹(中国語版、英語版、ロシア語版)の9130票に次ぐ8876票を獲得して第2位に入選している。以降、嚴華と共に上海の各ラジオ局を巡り歩き、歌手としての活動を主軸とするようになる[2][5]。『街角の天使』より、周璇が「四季歌」「天涯歌女」を唄うシーン 周璇はラジオ局で歌を披露する以外にレコードも多数録音している。同時に映画会社の芸華に誘われた縁から映画女優としての活動も始めた。1935年に『風雲兒女』で踊り子の1人として出演し、同年『美人恩』にも端役で出演[5]。1936年には映画女優としての本格的キャリアの幕開けとなる『花燭之夜 1936年の秋、周璇は嚴華と正式に婚約している。1938年7月10日、周璇は嚴華と北平(現在の北京)の春園飯店で結婚式を挙げた。だが周璇の嚴華との結婚は僅か3年で破綻する。ゴシップによって双方が互いに不倫していると疑い、何度か喧嘩をした挙句、周璇は家出したことさえあったという。1941年、嚴華と離婚。その後、周璇は終生二度と結婚することはなかった。周璇の2度目に公になったロマンスは石揮とのものだったが、すぐに別れたという。3度目の広く知られたロマンスは織物商人の朱懐徳との同棲であった。朱懐徳が甘い言葉で周璇を騙し、彼女の心と財産の一部を掠め取ったとの噂が流布したこともあった。1950年、身重の彼女は上海に戻った後、新聞紙上で朱懐徳との同居生活に別れを告げたことを発表し、年末には長男となる周民を出産している。周璇が4度目に公表した恋人は映画の美術関係で働く唐棣であった。1952年5月、周璇は美術教師の唐棣との結婚の準備をしていたが、唐棣は静安区人民裁判所
結婚と恋愛
一方、周璇はまたかつて香港の名脇役俳優の曾楚霖(中国語版)と同棲し周民という子を育てている。省港(昔の広州市、香港を合わせた総称)の有名なアナウンサーの李我(中国語版)が著した回顧録『李我講故(四)―點滴留痕《李我の昔語(四)―エピソードの痕跡》』の中の一章「曾楚霖と周璇の物語」には次のことが書かれている。〝これは全て私(李我)が実際に経験したことである。1948年頃、上海永華電影公司の代表者の李祖永が香港に映画スタジオを設立するためにやって来て、一緒に来た人達の中に上海映画のスターが沢山いて、その一団の中に『国魂』を撮影した劉瓊の他に、周璇もいた。曾楚霖は当時映画月刊誌の編集者であったことから、周璇と知り合うようになり、遂には同居するようになった。…1950年のある日、私は旺角の満庭芳レストランに食事に行くと、上の階に上がるエレベーターで周璇に出くわした。彼女は曾楚霖との間に生まれた子供を抱いて離れようとしていたところで、私は彼女と二言三言挨拶を交わし、これからどうするのか訊ねた。彼女は上海に帰ろうと考えていると話し、果たして2か月後には彼女が此処を去ったとの消息を耳にした…〟。 抗日戦争の勝利後、周璇は香港で撮影する『長相思』『各有千秋』『莫負青春』『清宮秘史』等の映画作品に主演するために香港と上海の間を行き来している。特に1946年から翌47年に掛けて出演した作品群は充実度が高い。歌手としても円熟味を増し、“唄う女優” としての魅力を最大限に発揮した作品が相次いでおり、特に1947年公開の『夜店
闘病と死去
1957年6月18日には健康状態も回復し退院の準備を進めていたが、7月19日に突如日本脳炎を発症。専門医による治療の甲斐なく1957年9月22日現地時間午後8時55分[6]、上海・華山医院(中国語版)[7]にて死去。37歳歿。
彼女の歌唱した楽曲は中華圏では今なお広く知られ、特に「何日君再來」は、後の鄧麗君や李香蘭(山口淑子)らのカバーにより日本でも良く知られる楽曲である。