この項目では、占術の一種としての「周易」について説明しています。経書の一種である古典としての『周易』については「易経」をご覧ください。
周易(しゅうえき)は易経に記された、爻辞、卦辞、卦画に基づいた占術であり、易経の異名の一つである。 中国哲学研究者の三浦國雄は著書[1]において、易経について、 もともとこれは、おみくじのような断片的な占いのことばだったはずですが、一冊のテキストに編集されていく過程でずいぶん化粧をほどこされ、いつの間にか『易経』などと呼ばれて神聖な儒教の経典の仲間入りどころか、そのトップに祀り上げられたのです。 「化粧をほどこされ」たと述べたのは、漢の時代に繋辞伝をはじめとする注釈が書かれたことを指していて、これでこの書物もずいぶんらしくなったのですが、それでも卜筮の書というその性格が否定されたわけではありませんでした。 と語っている。 易経は、古い時代からの卜辞の集積から爻辞が生まれ、次いで卦名、卦辞が作成されるといった変遷を経て成立したものであることが、近年の出土資料からはっきりしてきた。そういった考察をまとめた研究の1つに、元勇準
概要
従って台湾の邵詩譚
や徐世大などの「周易の本文は卜筮のために書かれたものではない」という説は今日では成立の余地が殆んどない。易経は周易の原文である爻辞、卦画、卦名、卦辞に十翼と呼ばれる注釈文を加えたものである。十翼とは下記の十個である。
彖伝(たんでん)上
彖伝下
象伝(しょうでん)上
象伝下
繋辞伝(けいじでん)上
繋辞伝下
文言伝
説卦伝(せっかでん)
序卦伝(じょかでん)
雑卦伝
[3]十翼は孔子の作と班固『漢書』以降言われてきたが、現在ではすべてが春秋時代の孔子の作ではなく、戦国時代から漢初に至る間に徐々に作られたと考えられている。[4]
ただし、近代の学者でもどこまでが誰の作なのかについては様々な説があり、定説がない。以下に要約する。[5]
崔述は、晋の杜預が「私が見た出土資料の『易経』には、十翼が全くついていなかった」と書き残していることや孔子の弟子たちが易について語っていないことを根拠に、十翼全てを孔子とは無関係の後世の何者かが創作したとした。この崔の説に近い主張をしているのは前述の三浦國雄など多く、現在の有力な説である。
皮錫瑞は、漢代の儒学者がしばしば「孔子は繋辞伝を書いている」と言っていたことを根拠に卦辞・爻辞・繋辞伝までを孔子の作とした。
また、戴震の説により、他の十翼は後世の儒者が易を講義したときのメモを孔子の説だと誤って伝承したものだろうとした。説卦伝・序卦伝・雑卦伝は秦の始皇帝の焚書のときに失われ、漢代に無名の「河内の女子」なる人物が突然発見したという記録があることも指摘した。皮の説に近い考え方をしたのは丸山松幸で、彼の訳本は卦辞・爻辞・繋辞伝のみとなっている。[6]
康有為は十翼という概念を創作したのも、説卦伝・序卦伝・雑卦伝も、「河内の女子」の話も全て、経典偽造者として有名な新の劉?のでっちあげであるとする。劉?は周易を持ち上げるために文王や周公旦にひもづけ、自分の偽造を隠蔽するために、十翼なる概念を捏造し、元々孔子が作った卦辞・爻辞・彖伝・象伝・繋辞伝さえも上下に割ることさえしたと康は考えている。康の説は顧頡剛などの支持を得た。
また周易とは別に易の名を持つ占術に、いわゆる漢易、断易や五行易とよばれる占術がある。これは易卦の爻に十干十二支を付加し、その五行の消長によって吉凶を断じるものである。呉の虞翻などがこの漢易の大家であった。ただ五行易の原典の1つである易冒では、易卦の爻に変化するものがない鎮静卦における占断は易卦の卦辞に従うとしており、断易もまた周易から切り離されたものではない。 周易の原文は卦辞と爻辞
易卦の構造
「易卦」の記号は「爻」を重ねたものであり、「爻」には陽と陰がある。このうち、「―」が陽爻、「--」が陰爻を表し、「爻」を3つ重ねたものを「八卦」もしくは「小成卦」、6つ重ねたものを「易卦」、「六十四卦」または「大成卦」という。
陽爻「―」と陰爻「--」が現すものは対をなしている。つまり明が陽で暗が陰、日が陽で月が陰、堅が陽で柔が陰といった感じで陰陽が別けられる。次に八卦の図形を挙げる。
すべてが陰爻から出来ており、土(固体)が重なるから大地であり「地」という。
大地を光が貫く形で「雷」という。
中央に液体があって両側に土があるから川の形であり「水」という。
大地の下に空洞や水がある形であり「沢」という。
重なる土の上に空があるから「山」という。
中心に固体があり周りに熱や気体があり「火」という。
大地の上に掴めない気体があるから「風」という。