周作人
[Wikipedia|▼Menu]

周 作人

プロフィール
出生:1885年1月16日
光緒10年12月初1日)
死去:1967年5月6日
中華人民共和国北京市
出身地: 浙江省紹興府会稽県(現在の紹興市越城区
職業:作家
各種表記
繁体字:周作人
簡体字:周作人
?音:Zh?u Zuoren
ラテン字:Chou Tso-jen
和名表記:しゅう さくじん
発音転記:ヂョウ・ズオレン
テンプレートを表示
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル 文学

周 作人(しゅう さくじん、1885年1月16日 - 1967年5月6日)は、現代中国の散文作家、翻訳家魯迅(周樹人)の弟。周建人の兄。最初の名は?寿。南京水師学堂に入る際、作人と改める。別称に啓孟、啓明、知堂、苦雨翁など。晩年に周遐寿という筆名を使う[1]
生涯

1885年1月16日(旧暦甲申12月1日)、浙江省紹興府会稽県東昌坊ロ新台門(現在の浙江省紹興市越城区に属する)にある周家の次男として生まれる。父は周鳳儀(字は伯宜)、母は魯瑞、上に四歳年長の兄の周樹人(後の作家魯迅)がいる。

1888年、疱瘡にかかり、1歳になるかならないかの妹の周端姑も感染して亡くなる。11月に弟の周建人(後に植物学者、中華人民共和国全国人民代表大会副委員長となる)が生まれる[2]

1893年2月、曾祖母(通称は九太太)が死去。9月に祖父の周福清の科挙不正事件が発覚し、贈賄罪で杭州の監獄に収監され、後に「斬監候」(死刑猶予)に処せられる。年の暮れ、母方の叔父の魯怡堂一家と共に、小皋埠にある「娯園」に移る。当時の様子は後年の随筆「娯園」に記される。

1894年の夏、一家は小皋埠より自宅に戻る。また、冬に父が突然吐血。翌年2月に三味書屋で勉強し始めるも、秋・冬の間に父の病気が悪化する。

1896年10月、父の周鳳儀が病没(享年37歳)。紹興南門外の亀山に葬られる。

1897年2月頃、杭州に行き、祖父に付き添う。下宿花牌楼の隣に住む12・13歳の少女に淡い恋を抱き、後の散文「初恋」に描く。

1898年6月、兄の魯迅が江南水師学堂に入学する。12月に南京から帰ってきた兄と共に、会稽の県考に参加。6歳の四弟の周椿寿が亡くなる[3]

1899年1月、会稽県考の「大案」を発表。第十図第三十四番に名を列ねる。さらに府試に参加し、2月、府試の「大案」を発表。第四図第四十七番に名を列ねる。

1900年1月、杭州から祖父の手紙が届き、「求是書院」のことを伝える。6月に義和拳匪の風聞を日記に記す。12月に会稽県考に参加し、「大案」を発表。第二図三十九番に名を列ねる。

1901年4月、8年間杭州に監禁された祖父の周福清が釈放される。8月に周椒生(周福清の従弟)の斡旋で、江南水師学堂の「枠外学生」の内諾をもらう。9月に南京へ旅立ち、10月に江南水師学堂に入学する。名を「作人」に改める。

1902年3月、帰省中の魯迅から手紙、及び書物数冊が送られる。中には『物競論』 『波蘭衰亡戦史』『原富』 があった。この頃、日本に留学する魯迅を、叔父の周鳳升と共に見送りに行く。8月に梁啓超の『飲氷室詩話』『新羅馬伝奇』『新民説』を読む。

1903年4月、東京の魯迅から『清議報』『新小説』『西力東侵史』などの書物と断髪の写真が送られる[4]

1904年7月、祖父の周福清が亡くなる。9月から紹興の東湖で英文を教える。ロンドン・ニュエンス社挿絵版『アラビアン・ナイト』の英訳本を入手し、「アリババと四十人の強盗」を翻訳、「?女奴」と改題して、雑誌『女子世界』に連載される。

1905年2月、ポーの小説『黄金虫』を翻訳、「山羊図」と改題して女子世界社に送る。5月に『玉虫縁』の題名で出版される。12月に日本留学を志望し、北京練兵処で選抜試験を受ける[5]

1906年、海外留学試験に合格したが、近視のために土木工学の学習を命じられ、仙台医学専門学校を退学し再来日する魯迅とともに、日本へ渡る。法政大学予科で予備教育を受ける。

1907年に魯迅との共訳になるイギリス作家の『世界欲』を商務印書館から刊行する。

1908年立教大学に入学し英文学と古典ギリシャ語を学ぶ。同じ時期に兄と同郷の有志と毎週日曜日に開かれる、章炳麟の『説文』講義に列席する。1909年、下宿の賄い婦に雇われていた羽太信子と結婚し、また兄弟で中国最初の本格的な翻訳小説集『域外小説集』を第2冊まで発表する。同じ年に兄は帰国するが、彼は日本語の勉強に本腰を入れ、日本文学にもようやく関心を示し出す。

1911年に帰国し、翌年には浙江省軍政府の省視学として杭州へ赴任する。1913年より省立第五中学の教員と紹興県教育会長を兼任する。

1914年、『中華小説会』に周作人最初で最後の白話小説『江村夜話』が発表される。

1917年3月、魯迅の斡旋で北京大学の教職に内定する(9月に文科教授に就任)。4月に蔡元培を訪ね、北京大学国史編纂処に就職する。7月に張勲の復辟劇を目撃する。

1918年1月、訳文「ドストエフスキの小説」を雑誌『新青年』に発表する。4月に北京大学文科研究所小説研究会で、「最近三十年日本における小説の発達」を講演。後に『新青年』に掲載される。5月に「武者小路君作る所のある青年の夢を読んで」を作る。與謝野晶子の「貞操は道徳以上に尊貴である」を「貞操論」の題で翻訳する。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:42 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef