呉?
[Wikipedia|▼Menu]

呉?

前漢
長沙王
出生不詳
死去紀元前202年
別名番君
爵位衡山王〔楚〕→番君〔楚〕→長沙王〔漢〕→長沙文王〔没後〕
官位番陽県令〔秦〕→〔地方軍頭領〕
主君〔独立勢力〕→項羽劉邦

子:呉臣、呉淺、孫:呉回
義理の子:英布〔娘婿〕
子孫:呉綱[1]
テンプレートを表示

呉 ?(ご ぜい、? - 紀元前202年)は、末から前漢にかけての群雄。初代長沙王(在位:紀元前202年)で、漢代初めに高祖劉邦を皇帝に推戴した異姓諸侯王のうち、趙王張耳と並んで天寿を全うし子孫に王位を伝え、長沙王はその中で最も長く続いた王となった。
略歴

秦の番陽県令であり、長江・?陽湖一帯の人々に慕われ、「番君」と呼ばれた。陳勝・呉広の乱に始まる秦末の乱の際、英布は呉?に従い、呉?は自分の娘を英布の妻とし、越の人間を率いて秦への反乱に加担した。沛公劉邦が南陽を攻めた際、劉邦は呉?の将の梅ミと遭遇し、一緒に南陽の県を攻め落とした。

高祖元年(紀元前206年)、関中が劉邦、項羽によって落とされ秦が滅び、項羽が義帝を奉じて各地に王を立てると、越の人間を率いて功績のあった呉?は衡山王に封じられ、梅ミは十万戸の侯に封じられた。その後、項羽は九江王英布と衡山王呉?に命じ、義帝を殺させた(『史記』項羽本紀)。

時期は不明だが呉?は項羽によって衡山王を剥奪され、番君に降格された。その後、離反して劉邦に与した。英布と同時期のことであるのか、あるいは呉?が英布を唆して劉邦陣営に付いたのかは不明だが、劉邦は呉?の功績を高く評価している。

高祖5年(紀元前202年)、漢王劉邦が項羽を滅ぼすと、楚王韓信・韓王韓信・淮南王英布・梁王彭越・趙王張耳・燕王臧荼と共に劉邦に「皇帝」の尊号を奉った。同年、呉?は劉邦により長沙王(「異姓七王」の一人)に立てられ、その年に死亡した。文王とされた。高祖劉邦は後に呉?の忠を褒め称え、律令に記させている。

長沙王は子の成王呉臣が継いだ。呉臣は在位中、反乱を起こすも敗れて逃げてきた英布を殺している。その後も長沙国は劉邦が「劉氏でなければ王としない」と盟約を結んだことの例外となり、哀王呉回、共王呉右、靖王呉著と継承され、長沙国は文帝の後7年(紀元前157年)に呉著が後継ぎを残さず死亡するまで続いた。
脚注^魏書』諸葛誕伝が引く『世語』よると、呉?の16世孫で、諸葛誕長史を勤めたと記されている。

参考文献

前漢司馬遷著『史記』巻19恵景間侯者年表

後漢班固著(顔師古注『漢書』巻1下高帝紀下、巻13異姓諸侯王表、巻31項羽伝、巻34英布伝、同呉?伝


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:4916 Bytes
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef