.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}呉 秀三(くれ しゅうぞう)
肖像
生誕 (1865-03-14) 1865年3月14日
日本 武蔵国江戸
死没 (1932-03-26) 1932年3月26日(67歳没)
日本
市民権 日本
国籍 日本
研究分野精神医学
研究機関東京帝国大学
巣鴨病院
ウィーン大学
ハイデルベルク大学
東京府立松澤病院
出身校東京帝国大学
主な業績日本における精神病学の創立
プロジェクト:人物伝
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呉秀三画像
呉 秀三(くれ しゅうぞう、元治2年2月17日〈1865年3月14日〉[1]- 昭和7年〈1932年〉3月26日)は、日本の医学者、精神科医。東京帝国大学医科大学教授(精神病学講座)。師事の榊俶の早世により役職を引き継がれ、日本における近代的な精神病学を創立した。『日本の精神医学の父』とも呼ばれる[2]。
クレペリン学派の新しい精神病学の普及を通じて、精神病患者の監護法を改めた。日本における最初の精神衛生団体である精神病者慈善救治会を組織(1902年)、三浦謹之助と共に日本神経学会を創立[3]。日本の近代精神医学者のほとんどが、呉の影響を受けた人々といえる[4]。
人物・業績(くれこうせき)の三男として、江戸青山の広島藩邸(現東京都港区)に生まれた[5][6]。母・せきは箕作阮甫の長女[6]。統計学者の呉文聰は長兄[6]。
幼少時より、漢籍を学んで漢学を愛好し、5、6歳の頃には『唐詩選』『三体詩』を暗記していたという。16歳で父母を相次いで亡くし、経済的困窮もあったため、学生時代から医学書を出版した。帝国大学医科大学を1890年に卒業。日本で初めて狐憑きをヒステリーであると提唱したベルツのドイツ語の講義を受けていた。1891年、医科大学精神病学教室榊俶の助手・東京府巣鴨病院医員を兼任する。1891年に最初の論文「日本の不具者」「精神病者の書態」を著している。
1893年に富士川游と共著で『日本醫籍考』を、1894-1895年には単著で『精神学集要』を、1896年には法医学教授と共に『法医学提要』を刊行した。1896年4月助教授となり、オーストリア=ハンガリー帝国・ドイツ帝国へ留学。1897年7月-1901年10月、文部省より命ぜられウィーン大学のオーバーシュタイナー(Heinrich Obersteiner
)教授に神経病理学を学んだほか、クラフト・エービング教授、ハイデルベルク大学のクレペリン、ニッスル(Franz Nissl)、エルプ(Wilhelm Heinrich Erb)、教授、サルペトリエール病院のフィリップ・ピネル医師に師事。