呉服商(ごふくしょう)は、日本において「呉服」とも称される、和服の販売に関わる商業事業者、商人[1]。歴史的には、江戸時代に規模の拡大[2]や業態の大きな改革を経て[3]、明治時代以降における近代的な百貨店の発達の基礎を築いた[4]。
現代においては、呉服屋[5]、呉服店[6]、呉服専門店、呉服小売商[7]などとも称される。関東大震災後の日本橋人形町に建てられた小川屋呉服店の仮設店舗 1923頃
江戸時代の呉服商稲荷山宿旧呉服商「山丹」(2015年)
呉服(和服)の商取引の歴史は古いが、現代にまで系譜が伝わる有力な呉服商の多くは、江戸時代に起源をもっており、この時期に流通形態における大きな変動があったことを物語っている。京都では、江戸幕府の政策で、中世以来の上層町衆の一部が没落する中で、近江、伊勢、美濃などから流入した商人たちが、おもに御所に近い上京に拠って、新興町人として取引の主導権を握った[8]。特に、皇室、将軍家、諸大名などの呉服御用を勤める呉服商は、呉服所と称された[8]。
有力な呉服商は、上方や江戸など各地に支店を設け、商品の広域的流通を実現した[8]。
江戸時代の呉服商は、注文を受けて顧客のもとへ商品を持参する「見世物商い」や、商品を顧客のもとへ持参して売る「屋敷売り」 といった、後の百貨店の外商に相当する形態が販売の主軸で、支払いは年に1回ないし2回の掛け売りであったため、貸し倒れリスクも大きく、相手によって売価は定まっていない状態であった[9]。また、反物を売買するのが原則であり、仕立ては顧客が自家で行なうか、別途、仕立て屋に出さなければならなかった[9]。
1673年、江戸に進出した三井越後屋呉服店(三越の前身)は、「店前(たなさき)売り」、「現銀(金)掛値なし」、「切り売り」、「仕立て売り」といったそれまでの商習慣を打破する手法を次々と打ち出し、新たな需要の掘り起こしに成功した[9]。 1904年12月、三越は、日比翁助の主導の下、「米国に行はるるデパートメント・ストーアの一部を実現致すべく候」などと記した、いわゆる「デパートメントストア宣言」を関係各方面に発表し、座売りから陳列販売方式への転換に踏み出した[10]。以降、松坂屋、白木屋、松屋や、大阪を拠点としていた島屋、十合、大丸などの有力呉服店が、1910年代にかけて、株式会社化と百貨店への業態転換に踏み切った[4]。 もともと呉服商の中には、両替商[2][11][12]、酒造業[13][14]、その他の事業を兼業する者もあった。また、素封家として社会的な地位を築いた者もいた[13][15][16]。 その事業の起源が呉服商にある現代の日本企業は、百貨店に限られておらず、丸紅[17]、アコム[18]など多様な例がある。 呉服などの着物関連産業は、最盛期には「2兆円産業」ともいわれ[19]、1980年には1兆8,000億円の市場規模があったとされるが、その後の着物小売市場は2003年に6,270 億円、2014年に3,090 億円と、規模を縮小させている[20]。この数値には、小物など呉服以外も含まれているため、呉服に限った市場規模は、およそ2700億円ともいわれる[21]。 1990年代の縮小期を呉服商から販売業に転換することで乗り切った京都きものプラザは、些末な傷、織りムラ、目立たない汚れがある「B反」と呼ばれる反物を安く売り、これによって「呉服は高い」という常識を覆して人気を集めた。年間約220回の販売催事となった「大B反市」は当時の日本人がよく知る催事であり、顧客に販売員が付いて回る「つきそい営業」、B反と正規品のセットで販売を行う客単価向上戦略などがヒットし、2004年7月期には売上高約26億円を計上。しかし、呉服のオンライン販売の拡大、東レが開発した化織原料による廉価製品の登場、着付けの知識が不要で簡単に着られるセパレート着物など、安さで京都きものプラザに勝る製品が増え、手軽さで上回る流通手段が見られるようになったため、以後低迷。
百貨店への移行
他業種などへの展開
縮小期の呉服流通と呉服店
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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