呉智英
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くれ ともふさ
ご ちえい
呉 智英
生誕新崎 智
(しんざき さとし)
(1946-09-19) 1946年9月19日(77歳)
日本愛知県西枇杷島町(現・清須市[1]
国籍 日本
民族日本人
教育法学士早稲田大学1971年
出身校早稲田大学法学部卒業
職業評論家
漫画評論家
著作家
活動期間1981年 -
流派儒教
封建主義
影響を受けたもの西部邁など
影響を与えたもの浅羽通明大月隆寛宮崎哲弥宇野常寛など
肩書き京都精華大学マンガ学部客員教授
日本マンガ学会会長
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呉 智英(くれ ともふさ、1946年9月19日[注 1] - )は、日本評論家[2]漫画評論家[3]京都精華大学マンガ学部客員教授日本マンガ学会2代目会長、現理事。筆名の読みは「ご ちえい」とも[注 2]

本名は新崎 智(しんざき さとし)。ペンネームは『水滸伝』の「呉用[注 3]に由来する[4][注 4]愛知県西枇杷島町(現・清須市)出身[1]
経歴
若年期

愛知県西春日井郡西枇杷島町(現・清須市)生まれ。東海高等学校卒業。

1965年早稲田大学法学部入学。

学生運動では無党派の活動家として全共闘運動に参加。早稲田大学2年生の時、学費値上げなどを巡るストライキを防衛しようと、スト破りを計画する運動部の学生と乱闘して逮捕、起訴。2年半にわたる公判の後、1969年、4年生の終わりの頃に執行猶予つきの有罪判決を受けたが、大学からは何の処分も受けなかった。その理由について呉は次のように推測している[5]
事件当時、未成年だったこと(少年法の規定により、事件当時未成年であれば有罪判決確定後も前科がつかない)

自分が法学部の学生であり、教授会から無罪推定の原則を尊重してもらえたこと[注 5]

当時、共に早稲田闘争を戦った宮崎学によると、呉はある総会で執行部の運動方針に猛然と反対し、「学生大衆の中から『おまんこがしたい』という要求が澎湃として湧き上がったとしたら、執行部の諸君は大学当局にかけあって、我々におまんこ実現を勝ち取ってくれるというのか。ばかげた無原則的なことをいうんじゃないよ」と演説したことがあるという[6]

大学時代はサークル「文学研究会」にも所属。「社会科学研究会」所属で部室が同じ部屋だった中野翠の回顧本『あのころ、早稲田で』(文藝春秋[7]にも奇妙な友人として登場する。

1971年、早稲田大学卒業。
文筆業

友人の始めたコンピュータ会社などの勤務を経て、文筆業に入る。評論家としてメジャー化する以前の「清貧時代」、1970年から10年ほど、呉は水木しげるの資料整理のアルバイトをしたり、一時、夜勤の守衛も務め[注 6]、1988年発売の『バカにつける薬』[注 7]がベストセラーになり、以降は経済的に余裕ができた。

1981年に初の単著となる『封建主義、その論理と情熱』を情報センター出版局から刊行[注 8]。これは当時一般に信じられていた民主主義人権論の矛盾を追究し、脱却する道として封建主義(主に、孔子の唱えた儒教)を提唱する内容だった。

上記の思想から、長年にわたって主に「進歩主義的」な左翼勢力の批判[注 9]を行ってきた。だが、近年の左翼思想の退潮から、右翼側の『産経新聞』の批判的研究などをはじめ、同紙がしばしばトンデモ系のオカルト記事を掲載するなど、批判している[注 10]

また、呉ら全共闘世代の新左翼の間で、カリスマ的存在であった吉本隆明についても初期から批判的で、吉本の重要な思想的基盤である「大衆の原像」の抽象性を批判。また、吉本が花田清輝ら左翼陣営内の論争で無敵だったのは、彼が「神学者のふりをした神学者」(マルクス主義を信じない左翼)であったからだとしている。ただし、吉本の「転向論」については評価している。

漫画にも造詣が深く、漫画評論同人誌『漫画主義』[注 11]の編集部に石子順造山根貞男梶井純権藤晋がいたころ[10][11]に同誌につげ義春白土三平ジョージ秋山についての評論を発表。特につげ義春の『[12]に衝撃を受ける。発表された『ガロ』1966年2月号を紛失した際には、たまたま持っていた友人を拝み倒して500円で譲ってもらう[注 12][注 13]

論語聖書を愛読し、これらから近代批判の思想を読み取っている。1988年に都内で論語を講義する公開講座「以費塾」を、呉に親炙する評論家浅羽通明の手配で開始。月2回、第2、4金曜日に講義がおこなわれ(但し、8月は大学生の夏休みを考慮し休講)、23回前後で論語を通読する内容。2005年9月9日より始まった第14期が最終講義となり、2006年12月22日、終了した。


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