呉昌征
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呉 昌征(石井 昌征)1952年7月
基本情報
国籍 日本
出身地台湾
台南庁楠梓坑支庁仕隆区(現:高雄市橋頭区
生年月日 (1916-06-28) 1916年6月28日
没年月日 (1987-06-07) 1987年6月7日(70歳没)
身長
体重167[1] cm
64[1] kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション外野手投手
プロ入り1937年
初出場1937年3月28日
最終出場1957年10月19日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


台南州立嘉義農林学校

東京巨人軍 (1937 - 1943)

阪神軍
大阪タイガース
(1944, 1946 - 1949)

毎日オリオンズ (1950 - 1957)

野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年1995年
選出方法特別表彰
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

呉 昌征(ご まさゆき/しょうせい、1916年6月28日 - 1987年6月7日[2]は、台湾高雄市橋頭区(当時は台南庁楠梓坑支庁仕隆区)出身のプロ野球選手外野手)。

プロ入りから1942年までの登録名は本名の呉 波(ご は)。その後、日本に帰化し石井 昌征(いしい まさゆき)に改名。登録名は呉 昌征とした。

1リーグ時代に、巨人阪神の両チームで活躍した外野手。俊足・好打・強肩を誇り、そのエネルギッシュな攻守から人間機関車と呼ばれた。戦時下の投高打低の時代であった1942年1943年に2年連続で首位打者を獲得。1942年は.286で日本プロ野球唯一の二割台での首位打者、1943年はリーグただ一人の三割打者となり、最高殊勲選手にも輝いた。のちに阪神に移ると、1946年には投手も兼ねる二刀流で戦後初のノーヒットノーランを記録するなど二桁勝利(14勝)も挙げている。1950年のセ・パ両リーグ分立に伴って毎日オリオンズに移籍し、1957年にはNPB史上初の20年現役選手として連盟特別表彰を受けて引退。1995年日本の野球殿堂に、2018年には台湾棒球名人堂(中国語版)に選出され、王貞治に次ぐ2人目の日台野球殿堂入りとなった。
経歴
プロ入りまで

尋常小学校時代に走り高跳びで好記録を出し、織田幹雄から早稲田大学へ来ないか、と勧誘されたとの逸話がある[3]

嘉義農林学校(のちの国立嘉義大学)時代には近藤兵太郎監督の下、春の甲子園に1回(1935年)、夏の甲子園に3回(1933年1935年1936年)出場[4]。裸足の選手として知られたが、平素から裸足でプレーしていたわけではなく、甲子園出場の前に全員でスパイクを新調したが、呉は足に合わず靴ずれが生じ、痛くて脱ぎ捨てただけだったという[5]。当時は外野手に加えて投手を兼任していたが、1935年の春の甲子園では、2回戦でリリーフに立つもほかに救援登板した2投手と合わせて計21四球を出す乱調で、浦和中に12点を与え敗退した。以降、主戦投手になることはなく、野手に専念するようになった[1]1935年の夏の甲子園では、準々決勝で松山商業延長戦の末に敗れたが、この試合で安打を放ち一塁出塁すると三球連続で盗塁を決め、僅か3球の間に得点を挙げてしまったという。また、酷暑の夏の甲子園でプレーしながら、この時の新聞に「甲子園は涼しかった」との談話を残している[6]。甲子園通算6試合で、19打数4安打、打率.211[7]
プロ野球現役時代

東京巨人軍監督藤本定義と嘉義農林の近藤兵太郎が松山商業のOB同士で交流があったこともあり[7]1937年に巨人軍に入団。新人ながら1番・中堅手のレギュラーとなって春季は打率.289を挙げて打撃成績5位に入るとともに、リーグ最多の8三塁打を記録する[8]。その後打撃不振に陥り一時出場機会が減少するが、1940年より打順は下位ながら中堅手のレギュラーに復活する。1942年は主に七番打者を務めるが、戦時中の物資不足により品質の粗悪な飛ばないボールを使っていたため他選手が軒並み低打率に喘ぐ中、呉は前年より打率を大幅に向上させて終盤にはトップバッターに定着し、打率.286で首位打者を獲得した。なお、打率2割台での首位打者獲得は日本プロ野球唯一の記録となっている。翌1943年は呉波から呉昌征に改名すると、シーズン当初よりトップバッターに入って打率.300を記録。リーグでただ一人の3割打者となって、2年連続の首位打者とともに最高殊勲選手タイトルを獲得した。また、この年の5月17日から9月18日まで当時の新記録となる29連続盗塁成功を記録している(1964年に広瀬叔功が31連続で更新)[9]。なお、この両年はリーグ最多得点(1942年:65、1943年:68)を記録するとともに、2年連続で盗塁数2位(1942年:40、1943年:54)となった。

1943年シーズン終了後、台湾に帰郷するため巨人を退団するが[4]、一説では徴兵逃れが目的だったともされる[10]。しかし、台湾へ向かう準備で訪れた大阪で、同地の企業・神島化学工業に勤務することとなり[4]、さらに神島化学の社長・宮原清が阪神球団社長の富樫興一に呉を紹介したことで、阪神軍に移籍することとなった[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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