呉滅亡
266年の中国。赤が呉、緑が西晋の版図
戦争:呉滅亡
年月日:咸寧5年/天紀3年11月 - 咸寧6年/天紀4年3月15日(279年12月 - 280年5月1日)
場所:荊州・揚州一帯(現在の安徽省・湖北省・湖南省・江蘇省等)
結果:晋が呉を滅ぼし、中国を統一した(三国時代の終焉)。
交戦勢力
晋呉
指導者・指揮官
司馬炎
賈充孫晧
岑昏
戦力
160,000、一説に230,00050,000
損害
不明不明
三国時代
黄巾
張純
馬相
陽人
襄陽
江東平定
宛城
官渡(
白馬)
倉亭
博望
白狼山
長坂
赤壁
合肥(第一次)
潼関
濡須口
入蜀
陽平関
合肥(第二次)
定軍山
樊城
夷陵
洞口
南征
街亭
石亭
陳倉
子午
祁山
合肥(第三次)
合肥(第四次)
五丈原
遼隧
芍陂
興勢
東興
合肥(第五次)
狄道
段谷
寿春
蜀漢滅亡
西陵
呉滅亡
呉の滅亡(ごのめつぼう)は晋(西晋)が呉を滅ぼし中国を統一した歴史事象であり、三国時代の最終期の戦争である。西晋の元号から「太康の役」とも呼ばれる[1]。 魏の朝廷を掌握した司馬昭は蜀漢を滅ぼした後の265年に病没し、司馬昭の子の司馬炎(晋の武帝)が権力を継承した。司馬炎は同年に曹奐(元帝)の禅譲を受けて皇帝に即位し、晋王朝を建てた。その後、279年に司馬炎は6方向より呉を攻めるように命令した。晋軍20万は破竹の勢いで呉軍を破り、280年3月15日に孫晧が降伏したことにより、中国を統一した。 263年、魏の実権を掌握していた司馬昭は、鍾会・ケ艾を派遣して蜀漢を滅ぼすことに成功し、司馬氏の勢力は一段と強まった。司馬昭はこの機会に呉の制圧をも目論んだが、鍾会・姜維が蜀の地で反乱を起こしてケ艾を含む数多くの将士を失い、呉を滅ぼすための十分に強大な水軍の保持に欠けていた上、蜀漢滅亡後の混乱に便乗して永安に攻めてきた呉軍を追い返すので精一杯だった。一方で、呉の交州で呂興が反乱を起こし、魏に救援を求めたため、魏は元蜀漢の将である霍弋を派遣させた。呂興はまもなく内輪もめで殺されたが、霍弋は引き続き交阯に太守を派遣し、交州は南方における魏、そして晋の橋頭堡となった。 この状況で司馬昭は、即時の開戦ではなく、まず外交によって呉を威圧しようとした。そこでまずは国内の慰撫に努め、国力を蓄えた。さらに、降伏した蜀漢の後主劉禅を安楽公に、蜀漢から魏に降伏した重臣達もそれぞれ侯に封じ、益州の地を安定化させることで、呉の人心を買おうとした。司馬炎(武帝) 264年3月、司馬昭は晋王に即位した。10月、司馬昭は呉に使者を派遣し、蜀漢滅亡の戦果をアピールした上で、あわよくばそのまま呉を屈服させようとした。265年8月病没したため、子の司馬炎が相国の地位と晋王の位を継承し、併せて魏の朝廷の実権を掌握した。同年12月元帝から禅譲を受け、国号を晋に改めた(歴史上、西晋と呼ぶ)。 一方の呉は孫権の治世の晩年から後継者争いが発生し、国力は低下していった。第3代皇帝孫休の時代に、いったん落着きを取り戻しかけたが、交州の離反と蜀漢滅亡で窮地に立たされた。264年に皇帝となった孫晧は、より強大となった魏への対応を迫られた。孫晧は魏の使者に対し、自ら皇帝と称さず下手に出ることで矛先を避けようとした(魏・晋にとって、孫晧はあくまで呉王であり、皇帝僭称者に過ぎない)。司馬昭にとっても禅譲を目前にした時点では、孫晧の返礼は十分な外交的成果となった[2]。しかし晋が成立すると、孫晧は司馬昭の弔問名目で使者に遣わした丁忠に晋を与しやすしと進言されたのを機に、一方的に外交を打ち切った[3]。孫晧は晋への北伐を企図する一方、享楽に耽り酒色に溺れ、宮殿造営などの土木工事を行い、諫める忠臣らを殺したため、怨嗟の声は上は朝廷の官人から下は民衆にまで広がった。
概要
過程
晋王朝の成立