韓国の政治家呂運亨???
呂運亨
生年月日1886年5月26日(旧暦:4月22日)
出生地 朝鮮国 京畿道楊根郡西始面
呂運亨
各種表記
ハングル:???(韓国)
???(北朝鮮)
漢字:呂運亨
発音:ヨ・ウニョン
日本語読み:
りょ・うんこうろ・うんきょう
ローマ字:Yo Un-hyung
テンプレートを表示
呂 運亨(日本語読み:りょ・うんこう[1]またはろ・うんきょう[2]、朝鮮語読み:ヨ・ウニョン、1886年5月25日 - 1947年7月19日)は、朝鮮独立運動家、政治家である。本貫は咸陽呂氏。
太平洋戦争終結後の1945年8月、朝鮮建国準備委員会を立ち上げ、9月には朝鮮人民共和国を建国した。1947年、ソウルからの移動中、白衣社の李弼炯ら5人によって狙撃され、殺害された。死後、2005年、韓国政府は建国勲章大統領章を、2008年には建国勲章大韓民国章を追叙した。実弟に独立運動家、政治家の呂運弘がいる。哲学者の朴賛機(朝鮮語版)の母方の叔父である。字は會叔、号は「夢陽」(モンヤン、??)。
来歴.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}YMCAで演説する呂運亨(1945年8月16日)朴憲永(左)と(1946年2月)
京畿道楊州に生まれた。彼の家族は、両班出身だったが、少論派だったので、権力の主流では押されていたという。祖父呂圭信は、朝鮮が常に中国から侮辱されたと考え、中国を征伐しなければならないという考えを持っていた。彼はこれを朝廷に提案し、同志を糾合して結社も作っていたが、発覚して首魁は死刑を、呂圭信は流刑になる。戻っても呂圭信は兵法と築城法を研究するなど未練を持ったが徐々に孤立していった。それにもかかわらず、呂圭信は呂運亨に歴史の話をしてくれて、なぜ中国を征伐すべきなのか、それなりの主張を広げた。呂運亨は祖父の影響を強く受け、幼い頃の思想的背景を形成してくれた方で尊敬し、「慷慨之士」と評した。以後弟の呂運弘が米国に行って後日を図るとき、呂運亨は中国行きを選ぶが、これも祖父の影響である[3]。
1918年、上海で新韓青年党を組織。1919年、上海で設立された大韓民国臨時政府に参加。同志の金奎植をパリ講和会議に派遣。これが三・一運動を起こした。日本の法律上は犯罪者であったが、原敬内閣の招請で訪日して赤坂離宮にも来館し、これは貴族院で取り上げられて問題となった[4]。東京で吉野作造ら知識人と懇談して朝鮮独立を主張し、吉野が『中央公論』誌で「稀にみる尊敬すべき人格」と絶賛したため、評判となった[5]。
1920年、上海の高麗共産党に入党。1922年、モスクワで開催された極東諸民族大会に出席。1930年、上海で逮捕され、朝鮮で3年服役。出獄後は言論活動を中心に活動。1933年、朝鮮中央日報社の社長に就任した。
第二次世界大戦中は朝鮮人に向けて、半島学生出陣報、京城日報などを通じて「日本軍に志願するべきである」とした文章を投稿し、日本の戦争政策に協力したという話もある[6]。それは、「大東亜はわが日本を中心に建設されている。一大の決戦は、東亜10億の生存権を獲得するための戦いだ。血が乱舞する中、半島はいったい何をしていたのか」と発言したこともあったというものである[6]。呂は韓国の親日人名辞典に掲載されていないものの[6]、韓国の保守新聞、中央日報は前述の事実から「呂が親日であるのは明らか」と主張している[6]。しかし、親日反民族行為真相糾明委員会では呂運亨の親日資料はただ一つで、1943年から1945年まで独立運動を行った事実により、親日論難を否定した[7][8]。
大戦末期からは日本の敗戦を見越して、独立運動を活発化させた。サイパン島陥落から1ヶ月後の1944年8月10日には、建国同盟(朝鮮語版)を秘かに結成した。
1945年8月15日の日本敗戦の報を受け、朝鮮総督府政務総監の遠藤柳作が呂と接触し、解放後の治安維持のため行政権の委譲を持ちかけたため、政治犯の釈放と独立運動への不干渉などを条件に受諾した。また、同日中に安在鴻などとともに朝鮮建国準備委員会を結成した。