呂禄
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呂 禄(りょ ろく、? - 高后8年9月11日紀元前180年9月26日))は、前漢外戚?郡単父県の人。高祖劉邦の妻である呂后(呂雉)の一族で、呂氏が権力を握った時代に趙王・上将軍となった。
略歴

呂后の兄の呂釈之の子で、呂則・呂種の弟である[1][2]。父の呂釈之は劉邦に従い、劉邦が漢王となると豊邑に戻り劉太公を守ることを命じられた。

呂釈之は高祖6年(紀元前201年)に建成侯に封じられ、9年後死亡した。呂釈之は康侯と諡された。建成侯は子の呂則が継いだ。呂則は罪があって免ぜられ、その弟の呂種が継いだ[1]

呂禄は娘を斉王劉襄の弟の朱虚侯劉章に嫁がせた。

恵帝7年(紀元前188年)、恵帝が崩じると、残された母の呂后は陳平ら功臣を恐れて不安になっていた。陳平らは呂台・呂産・呂禄ら呂氏に南北軍の軍権を持たせるよう進言し、呂后の気持ちを和らげた。

高后元年(紀元前187年)、呂禄は胡陵侯に封じられた。

高后7年(紀元前181年)、呂后は丞相陳平らの請願により、趙共王劉恢(劉邦の庶子)の後釜として呂禄を趙王とし、呂釈之を趙昭王と追尊した。

高后8年(紀元前180年)、呂后の病状が悪くなると呂禄は上将軍となり、北軍を掌握した。呂后が死亡すると、呂禄は娘を少帝弘の皇后にした。

斉王劉襄が反乱すると呂産は灌嬰を鎮圧のため派遣したが、灌嬰は?陽から進軍しなかった。陳平の命を受けていた?寄が友人の呂禄に軍権を返上して封国へ行けば大臣や諸侯の疑いが解けると説得し、呂禄は呂産にそう進言した。しかし斉国の郎中令賈寿が反対し、呂産に早く宮殿に入ることを勧めた。

その間に呂禄は再度?寄と典客劉掲により説得されて北軍の印綬を返上し、指揮権を周勃に奪われた。呂産も衛尉に宮殿へ入ることを止められた。呂産は呂更始とともに朱虚侯劉章によって殺害された。呂産を失った呂氏一族は一気に殲滅され、呂禄も燕王呂通とともに捕らえられて処刑された。少帝弘も廃位されて夏侯嬰らに連れ出されて毒殺され、代王劉恒(文帝)が皇帝に擁立された。「呂氏の乱」を参照
家族【呂氏系図】(編集

史記』巻9、『漢書』巻18等を元に作成。

         (追)呂王
呂公     太上皇
劉太公 

                            
                         
 (追)呂王
呂沢     (追)趙王
呂釈之 高后
呂雉 高祖
劉邦 臨光侯
呂?
  
                              
           
 呂王
呂台 梁王
呂産 趙王
呂禄      趙王后
劉? 趙王
張敖
  
                               
           
 呂王
呂嘉 燕王
呂通      恵帝
劉盈 皇后
張? 魯王
張偃
 
                          

         皇后
呂? 後少帝
劉弘        
 



脚注^ a b漢書』巻18 外戚恩沢侯表 建成康侯釈之「孝恵二年、侯則嗣、七年、有罪、免。則弟種、高后元年四月乙酉封?」
^ 『漢書』巻18 外戚恩沢侯表 建成康侯釈之「侯禄、種弟、高后元年九月丙寅封?」

参考文献

司馬遷著『史記』巻9呂太后本紀

班固著『漢書』巻18外戚恩沢侯表

呂禄が登場する作品
テレビドラマ


美人心計?一人の妃と二人の皇帝?』(2012年、中国)


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