呂氏の乱
[Wikipedia|▼Menu]

呂氏の乱(りょしのらん)は、中国前漢時代、建国者劉邦の正妻の呂雉(呂后)死後に起きた政変のことである。諸呂の乱(変)・誅呂安劉とも言う。

皇太后呂雉は、生前、甥の趙王呂禄を上将軍に、呂王呂産を相国に任じ、朝廷の軍事・政務の大権を掌握させた。呂雉は、同時に、宿将灌嬰を大将軍に任じて?陽に駐屯させ、東方の劉氏諸王が挙兵して皇位を簒奪することを防がせた。呂雉の死後、呂禄・呂産ら呂氏一族は政変を企んだが、朝廷の大臣であった陳平周勃、高祖劉邦の孫の劉章らがこれを阻止し、呂氏一族を誅殺した。

その後、陳平らは、少帝弘及びその3人の弟が、呂雉が朝廷の外から連れてきた子であって、恵帝の実子ではない旨を発表し、少帝弘を廃位して、代王劉恒を即位させ、劉襄らの簒奪の野心を潰えさせた上、少帝弘ら兄弟4人を殺害した。その後、陳平及び周勃らは、白馬の盟(中国語版)に基づき、数々の措置を講じ、最終的に、劉氏を安んじて、後の文景の治の基礎を築いた。
呂氏による政権掌握

始皇帝によるの天下統一と、その死後巻き起こった陳勝・呉広の乱(竿旗起義)と呼ばれる農民反乱と旧六国での有力者・武将らによる復興宣言、六国の一つを復興してその将となった項羽劉邦らによる秦の滅亡、その後の内戦(楚漢戦争)を経て、最終的に項羽を滅ぼした劉邦は各地の王らによる推戴を受けて皇帝を称し、国号をと定めて新たな王朝を樹立した。即位した劉邦は正妻であった呂雉を皇后に、呂雉との間の男児であった劉盈を皇太子に立てたが、その一方で側室の戚夫人とその息子の劉如意を溺愛し、たびたび劉盈を廃して劉如意を皇太子に擁立しようとした。しかし呂雉は楚漢戦争時代からの劉邦の部下であった張良の力を借りる事で、劉盈の廃立をなんとか阻む事に成功した。

高祖12年旧暦4月25日(紀元前195年新暦6月1日。以下、カッコ内は新暦)、劉邦は長楽宮にて死去し[1]、皇太子の劉盈が新たに皇帝として即位し(諡号は恵帝、以下便宜上そのように表記)、母である呂雉は皇太后とされた[2][3]。また呂雉の意向により、恵帝は自身の姪(姉妹の魯元公主張耳の後嗣の趙王張敖の娘)の張氏を皇后に立てた。しかし呂雉は恵帝の即位後、過去の後継者争いを巡る対立の報復として、幼い劉如意(当時は趙王)を暗殺、さらに戚夫人を残虐な方法で殺害した事で、精神的なショックを受けた恵帝は淫楽に耽り、やがて病が重くなり起床することもできなくなった[4][5]

8月11日(9月26日)、恵帝は死亡した。葬儀の際に呂雉は慟哭したものの、涙は流さなかったとされる[6]。張良の子であった張辟彊(当時15歳)は左丞相の陳平に対し、呂雉が陳平らの存在を恐れている事を伝え、呂禄・呂産ら呂氏一族の者達を招き入れるよう進言する事で、呂雉の警戒を解き身の安全を保つ事ができると進言した。陳平がこれを聞いて奏上したところ、呂雉は、大変喜んでこの建議を受け入れた[7]

呂雉は恵帝の死後称制を開始し、呂氏一族を王に封じようと考えたところ、右丞相王陵は、高祖の白馬の盟に違背すると主張してこれに反対し、左丞相の陳平は、呂雉に同意した。呂雉は、王陵を太傅(名誉職)に昇進させ、その権力を剥奪した。王陵は、病と称して参内しなくなった[8]。呂雉は、左丞相陳平を右丞相に昇進させ、辟陽侯審食其を左丞相に任命した[9]。呂雉は恵帝の命と称して、三族令の廃止を宣言した[10]

三代目の皇帝には恵帝の子(名不詳、前少帝と呼称される)が即位したが、この人物は恵帝と女官の間に生まれた子であり、その事実を隠して皇后の張氏との間の子であると偽るため、実の母であった女官は殺害されていた[11]。前少帝は成長すると実の母の敵を討とうと望むようになり、呂雉は前少帝を恐れた[12]。高后4年5月11日(紀元前184年6月15日)、呂雉は前少帝を廃し、幽閉した後に殺害した[13]。次の皇帝には恒山王劉義が擁立され、劉義は諱を改めて劉弘と称した[14]

呂雉は称制に臨んで長兄の呂沢の子の呂台(中国語版)を呂王(斉国の博陽郡の一部を独立させて呂国とし、その王)に封じ、死後はその子の呂嘉(中国語版)が爵位を継いだが、呂雉は呂嘉の住まいが豪奢であることを理由に高后6年(紀元前182年)にこれを廃位し、呂台の弟で呂嘉の叔父であった呂産を呂王に封じた。高后7年(紀元前181年)2月、呂産は、梁国に国替えとなり、梁国は呂国と、それまでの呂国は済川国と改称された。また呂雉の次兄の呂釈之(中国語版)の子の呂禄も、彼が北軍を統率していた際に、軍規が厳正であり、威信を備えていたことを理由に、高后7年に趙王に封じられた。

呂雉は、恵帝の在位時に、高祖の庶子である趙王劉如意を殺害し、高祖の庶子である淮陽王劉友(中国語版)を趙王に改封し、劉友に呂氏一族の娘を嫁がせた。劉友には愛妾がいたため、寵愛を失った劉友の王后の呂氏によって、謀反の疑いで誣告され、劉友は、京城に召されて餓死した。呂雉は、また、高祖の庶子である梁王劉恢を趙王に改封し、呂産の娘を嫁がせた。劉恢の后(呂氏)は、趙国を掌握し、劉恢を監視し、人を派遣して劉恢の愛妾を毒殺したため、劉恢は、傷心し、恐れて自殺した。呂雉は、劉恢が愛妾のために殉死したと考え、劉恢の封国を廃除した。高祖の別の庶子である燕王劉建(中国語版)の死亡後、呂雉は、人を派遣して劉建の庶子を殺害した。燕国は、後嗣がなかったため、国を除かれた。
呂氏討伐の動き

高后8年(紀元前180年)、呂雉は病死した。その遺書により各地の諸王には千金が支給され、大赦が下され、呂産は相国に昇進し、呂禄の娘は少帝に嫁いだ[15]。呂氏一族は反乱を企てていたが、周勃・灌嬰らの存在を恐れて計画を躊躇していた[16]。また当時長安にいた朱虚侯劉章は、呂産の娘であった自身の妻を通して、この陰謀を察知する事ができた[17]。粛清を恐れた劉章は兄の斉王劉襄に対し挙兵を要請し[18]、劉襄は琅邪王劉沢を欺いて兵権を奪い、呂后による前少帝の暗殺、三趙王(劉如意・劉友・劉恢)の殺害、呂氏一族への封爵などを糾弾する檄を飛ばして兵を挙げた[19][20]。これを知った呂産は灌嬰に兵を与えて迎撃を命じたが、灌嬰は?陽まで進軍するとそのまま留まり、劉襄に対し「呂氏が変事を起こすのを待って、それから共に彼らを討とう」と説得した[21]。これを聞いた劉襄は、斉国の西の国境まで兵を引いた[22]

呂禄・呂産らは関中での反乱を計画したが、内にいる劉章・周勃らや外からの斉・楚の兵を恐れ、また灌嬰が斉の兵と衝突するのを待とうとするなど、優柔不断となっていた[23]。一方、陳平と周勃は曲周侯?商の身柄を拉致し、その息子の?寄(中国語版)に指示して、呂禄・呂産らに対して「天下は未だ安定しておらず、大臣や宗室の諸王らは貴方がたの野心を疑っている。軍の指揮権を返還して各々の領地へと帰れば、彼らの疑念を解く事ができる」と吹き込ませた[24]。呂禄はこれを信じて呂氏一族の元にこれを伝えたが意見は定まらず[25]、呂禄は呂雉の妹であった臨光侯呂?(中国語版)の下を訪ねたが、呂?は激怒して「軍の指揮権を失えば、我が一族の居場所はなくなるであろう。こんなもの、人に奪われるぐらいならば!」と宝物を外に叩きつけたという[26]

高后8年9月26日の朝、御史大夫でもある平陽侯曹?(前相国の曹参の子)は呂産と会議を行っていたが、ちょうど呂産の親族である郎中令賈寿の使者が、灌嬰が謀反を起こした旨の知らせを伝え、呂産は急いで未央宮(前漢を通しての皇帝の宮殿)へと向かった[27]。場に居合わせた曹?は丞相の陳平と大尉の周勃に対しこの事を報告し、周勃は北軍の指揮権を抑えようとした。周勃は割符を持っていなかったため、襄平侯紀通(好畤で戦死した紀信の子)の手引きによって軍営へと入る事ができた[28]。周勃は北軍の兵士たちに対し、「呂氏に味方するものは右肩の衣を脱げ。劉氏に味方するものは左肩の衣を脱げ」と命じると、兵士たちは皆左肩の衣を脱ぎ、劉氏への忠誠の意思を示した[29]

同じ頃、南軍の指揮権を持っていた呂産は未央宮に入って乱を起こそうとしたものの、曹?より「呂産を通してはならない」との指示を受けていた衛兵らに入宮を拒まれ、宮殿の前を右往左往していた[30]。さらには万全を期した周勃の指示により、少帝を保護すべく向かっていた劉章率いる一団が未央宮へと入り、呂産は厠の中まで逃げ込んだところを殺害された[31]

劉章はさらに長楽宮を衛尉として守っていた呂氏一族の呂更始を殺害し、周勃と合流した[32]。周勃は「呂産さえ仕留めた以上、大勢は決した」と語り、呂氏一族の者達を全て捕え、長幼の区別なく皆殺しにした[33]。呂禄・呂?・燕王呂通らは斬られ、呂雉の孫として血を引いていた魯王張偃は王号を廃された[34]
新帝擁立の動き

呂氏一族を誅滅した朝廷の大臣一同は、少帝およびその兄弟たちは劉氏の血を引く者ではなく、呂雉がどこかから連れてきた由来不明の私生児であるとして、新たに劉氏の者の中から皇帝を擁立する事を決定した[35]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:37 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef