呂明賜
[Wikipedia|▼Menu]

呂 明賜(ル・ミンス)
Ro Ming-Soo台北市成棒隊 監督 #97
基本情報
国籍
中華民国台湾
出身地高雄市
生年月日 (1964-10-30) 1964年10月30日(59歳)
身長
体重178 cm
86 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手捕手
プロ入り1988年
初出場NPB /1988年6月14日
CPBL /1992年3月19日
TML /1997年
最終出場NPB /1991年
CPBL /1996年10月21日
TML /2000年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


華興高等学校(中国語版)

中国文化大学

読売ジャイアンツ (1988 - 1991)

味全ドラゴンズ (1992 - 1996)

高屏生活雷公
高屏年代雷公
(1997 - 2000)

監督・コーチ歴


高屏年代雷公 (2001 - 2002)

誠泰コブラズ (2004 - 2005)

La Newベアーズ (2006 - 2009)

興農ブルズ (2010)

國訓中心棒球隊

台北市成棒隊

この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

呂明賜
プロフィール
出生:1964年10月30日
出身地: 台湾
職業:元プロ野球選手外野手
各種表記
繁体字:呂明賜
簡体字:呂明?
?音:L? Mingci
和名表記:ろ めいし
発音転記:ル・ミンス
英語名:Ro Ming-Soo
テンプレートを表示

呂 明賜(ル・ミンス、ろ めいし、1964年10月30日 - )は、台湾中華民国)の高雄市出身の元プロ野球選手外野手捕手、右投右打)、野球指導者。

読売ジャイアンツ在籍時は登録名の読みを「ろ めいし」とし背ネームを「RO」としていた(これは王貞治(OH)、阿井英二郎(AI)、魚満芳(UO)、植大輔(UE)、呉憲助・呉俊宏(GO)、呉念庭(WU)、呂彦青(LU)、ボー・タカハシ(BO)と並び日本プロ野球史上一番短い背ネームである)。
経歴
日本プロ野球時代

台湾の文化大学から、1988年日本プロ野球読売ジャイアンツに入団。背番号”97”をつけた。入団時の体重が97kgだったことに由来する。

当時、巨人にはウォーレン・クロマティビル・ガリクソンといった元メジャーリーグ選手の外国人選手が在籍していたため、第3の外国人の扱い(当時の日本プロ野球では、出場選手登録できる外国人は1球団につき2人まで)だった。そのため、入団初年の1988年シーズンは当初二軍であった。

ところが、6月13日の対阪神タイガース戦(甲子園)で、クロマティが死球を受け右手小指を骨折し離脱したことに伴い、呂は初めて一軍に昇格(二軍での成績は、.387、12本、34点)。翌14日の対ヤクルトスワローズ戦(神宮)で、初回にボブ・ギブソンから初打席初本塁打を記録した。その後もハイペースで本塁打を量産し、デビュー9試合で36打数12安打7本塁打(デビュー17試合で打率.379、10本塁打)と大暴れする。新聞の見出しには、「呂効果」という文字が躍り、視聴率にも跳ね返っているとされた[1]

この活躍を受けて、まず6月20日にセリーグ理事会で、それまでベンチ入りが1人までしか認められていなかった通訳が、2カ国語必要な場合は2人まで可能とされた[2]。さらに、7月6日にはセ・リーグ会長の川島廣守から会長特別賞が贈られ[3]、賞金10万円とメダルが贈られた[4]。オールスターでは、その年のジュニアオールスターゲームオールスターゲーム(監督推薦)の両方に出場することになった。当時、オールスターゲームの外国人枠は2人だったが、「出場を望むファンの声にこたえるため」[5]急遽3人に増設(同時出場は2人まで)されたほどであった。

後半戦は、疲労(球宴期間中に休めなかった)、弱点(内角の速球)を攻められたこと、成績下降に伴うフォーム改造、が原因で急速に成績を落とす[6]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:31 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef