呂岱
呉
大司馬・交州牧・番禺侯
出生延熹4年(161年)
徐州広陵郡海陵県
死去太平元年9月16日[1](256年10月21日)
荊州武昌郡武昌県
?音L? Dai
字定公
主君孫権→孫亮
テンプレートを表示
呂 岱(りょ たい、161年 - 256年)は、中国三国時代の呉の武将。字は定公。子は呂凱。徐州広陵郡海陵県の人。 郡や県の役人をしていたが、中原戦乱を避けて江東に疎開し、孫権の時代にその幕府に仕え、呉県の丞となった。孫権は諸県の長や丞を呼び寄せ、地方の行政について質問をすることがあったが、そのときに呂岱の受け答えを見て、わが意を得た人材と思い、幕府に呼び戻して録事とした。
生涯
建安16年(211年)、孫権は呂岱に部将の尹異ら兵士2千人を率いさせ、漢中郡の張魯を広漢郡の?城に誘い出そうとしたが、張魯は警戒し道を塞いだため失敗し、孫権の命令により帰還した[2]。この帰りの途上で、蜀侵攻途上の劉備軍と白帝辺りで見っている記述が残っている[3]。
建安20年(215年)、劉備との間で荊州を巡る一触即発の事態が起こったときには、呂蒙や孫茂達とともに長沙三郡[4]を降伏させた。安成・攸・永新・茶陵の役人が反逆したため、彼等の立て籠もる陰山城を包囲し、またたくまに陥落させた。その後、呂蒙は三郡に孫河[5]を置いて鎮守を委ね、関羽と魯粛が対峙する益陽に軍を進めた。結局、両軍は交戦せずに対峙を続けた[6]。前に曹操が張魯を倒して漢中を手にいれたことにより、劉備の拠る益州が曹操の攻撃にさらされる恐れがあるため、劉備は益州を失うことを恐れて、孫権へ和解を申し入れてきた。劉備はかくて湘水を境界線として割き、長沙・桂陽の領有権を孫権に認め、形式的に休戦した。孫権は長沙・桂陽二郡が呉の領有権に収まると、長沙に呂岱を留め置き、濮陽逸の下に置いた[7]。
建安22年(216年)[8]、長沙郡安成県令の呉?と中郎将の袁龍が関羽に呼応して好機を通じ再び反乱を起こし、攸と醴陵に拠った。孫権は横江将軍の魯粛に命令し攸を討たせ、呂岱には醴陵を攻撃させた。魯粛は呉?を破ると、呂岱は醴陵を陥れ、袁龍を斬った。長沙の乱を平定し、この功績で廬陵太守に遷った。
延康元年(220年)、歩?の代を継いで交州刺史となった。高涼の不服住民の首領の銭博が降参してきたので、孫権に上奏して彼を高涼西部都尉とした。鬱林の異民族の不服従民は反乱し郡や県の役所に攻撃してきたため、呂岱はこれを打ち破った。桂陽や?陽一帯を勢力に収めていた賊に王金という人物がいたが、南海郡の辺境地域で人を集めて周囲に略奪をしていた。呂岱は孫権よりの討伐の命令を受けて王金に攻撃し、王金を捕虜にし都に送り、1万ほどの反乱軍を斬るか捕虜にした。安南将軍となり、仮節を与えられ、都郷侯に封じられた。
黄武5年(226年)、交阯太守士燮が死ぬと、孫権は士燮の子の士徽を安遠将軍に任命し九真太守とし、交阯太守は校尉の陳時をあてようとした。呂岱は孫権の許可をとり、交州を海南3郡[9]と海東4郡[10]とで分割し、前者を交州、後者を広州とし、交州の刺史は将軍の戴良を任命し、自身は広州の刺史となった。しかし戴良と陳時の着任に反発した士徽がこれを妨害したため、呂岱は士徽の罪を問うべく、三千の兵を率いて水軍で交阯に夜襲した。ある者は士一族の実力を恐れ、軍をゆっくり進めるべきだと進言したが、呂岱は士徽達が油断している隙をつくべきとだと主張した。合浦で戴良と合流し、そのまま急いで軍を進めた。さらに呂岱は、士徽に荷担しなかった士匡(士徽の従兄弟)と面識があったことから、士匡に士徽らの官職は剥奪するが、生命は保障すると伝え、その説得を命じた。士徽は大いに恐れおののき兄弟6名とともに降伏してきた。しかし呂岱は事前の約束を反故にし、士徽兄弟をすべて処刑し、その首を孫権の下に送った。その後、士氏の残党の甘醴や桓治らの抵抗を退け、交州を平定した。番禺侯に封じられた。広州は廃止され、再び交州となった。
その後も呂岱は南方の九真を討伐し、数万人を討ち取ったり捕虜にしたりした。さらに南方の国々に役人を送り、呉の宣伝を行った。これにより、遠くの扶南・林邑・堂明の王達も使者を送り貢ぎ物を献上してきた。これらの功績により呂岱は鎮南将軍に任じられた。
黄龍3年(231年)、交州から長沙に任地を移された。武陵の異民族が不穏な動きをするようになったので、太常の潘濬達とともに武陵の異民族を討伐し、平定した。
嘉禾3年(234年)、潘璋が死去すると、呂岱がその兵士を引き継ぎ、陸口の守備にあたることになった。呂岱は駐屯地を蒲圻に移転させている。